2015年9月26日土曜日

なにがそうさせている 生き方編8「SNSの繋がりと孤独感」

「SNSの繋がりと孤独感」

現代社会の中で、近年の精神的な問題には孤独感を抱く人の増加があるように思われます。
人と繋がっていたい衝動などは、孤独になることへの恐怖が根底にあると言えます。
本来、生物学的に言えば、人間も群れで生活する生き物ですから、孤立することは生命の危険が増す状態です。
そう考えると本能的に孤立することは恐怖であるという信号を脳が発するのは自然なことでしょう。
集団でのコミューンを形成し、その中で上手くコミュニケーションを取ることで安全な生活を手に入れてきたのです。

一番身近なコミューンは、やはり家族になります。
自分が生まれ落ちた時から、そこに両親の庇護がなければ生きていけません。親の庇護の元で成長していくことは、ここでのコミュニケーションの在り方が絶大な影響力を及ぼすことは想像するに難くありません。

両親との繋がりで一番重要な事は、愛情をどのくらい受け取っていたかです。
子どもの頃にどれだけ愛情を受けて育ったかで、与えられる喜びを感じる体験が増します。
この感覚が十分でないと、愛情に対する欲求がくすぶってしまいます。
その欲求が満たされないことは、与えてもらえない=分かってもらえない、という孤独感に繋がります。

親の愛情、特に母親の愛情は、無償の愛であると言います。
そこには、親にとっても、子どもにとっても、自分ではない人に対して見返りを求めない愛情が存在します。
どれだけ相手のことを想うのか、それは物理的に測れるものではありません。
お互いがどれだけ相手を理解し、相互に相手を思いやる気持ちを分かり合えた満足感。
その満足感を得ることが出来た時に共感の気持ちが増幅されるのです。

共感の度合いを深くする人がいれば、孤独感は薄れていきます。孤独を感じるのは共感の深さの問題なので、数が多ければ良いとはなりません。
メル友がいっぱいいるとか、LINEやSNSなどで友達が大勢いる、と自慢げに言うのを聞きますが、数が多ければ正しいという概念に縛られているように感じてしまいます。
共感の度合いが少ない人といくら繋がっても、自分自身の本当の満足感は得られないので、どこか数を頼りにしている行為なのではないかと思ってしまいます。
ただ、本人がそれを意識してるかどうかは分かりません。
繋がった人数が増えたとしても、孤独感は消えないと思っているなら、そういう可能性はあるということです。

共感を得るには、相互理解を深めるしかありません。
日本人は世界の中でもBlogやSNSでの個人による自己表現が多いとされています。
投稿写真なども本当になんでもない日常を晒していると言えるでしょう。
自己表現が豊かと言えるかもしれませんが、逆に分かって欲しいという心境がどこかにあるのでは、と思う処もあります。必要以上に自分を晒す行為には自分に注目して欲しいという欲求が隠れてはいないでしょうか。
共感を得たいがために、自分を分かって欲しいという投稿になり、エスカレートすると、フェイスブックなどで「いいね」をどれだけ付けてもらえるかに左右されてしまう事になります。
自分のことを気に掛けてくれることには、誰もが喜びを感じます。
SNSでは、その心理を上手く活用していると言えますが、それに過剰な反応を起こすということは、本来の自分自身が持つ環境にどこか歪みがあるのかもしれません。
自分の事を分かって欲しいという欲求も誰にでもあるものです。しかし、それを一方的に押しつけていては相互理解にはなりません。相手のことをより優先に分かろうとする気持ちがあってこその共感です。

私はこう思う、私はこういう人間です、といった自己主張は必要ですが、それが、だから分かって欲しい、という欲求を満たす行為としてだけなら、相手は押しつけと感じてしまいます。
まずは相手を理解する、受け入れることをすることで、相手の共感も深まるのです。
生物である以上、自己欲求を満たすことは優先される行為になります。生きていく上で自己の利益を獲得する為の技術や知識も習得していきます。損をしない、より得する生き方が正しいという社会的概念も影響します。
しかし、だからこそ相手を思いやる気持ちを持つというのが、より人間的な行為であるとも言えます。
それには打算の無い、無償の思いやりによる繋がりが、より満足感と幸せを得られます。
その最たる経験が、両親による無償の愛情を得る事になるのです。

見返りのなり愛情や思いやりを経験することで、自分自身がそれを相手に対しても出来るようになるのです。
それによって、相手が喜びを得ることが自分の喜びでもある、という実感を得られることで、自身の孤独感も無くなっていくのです。

日本の誇るおもてなしの文化は、他人に対する思いやりにあると思います。しかし孤立感の裏側にある、分かって欲しいという承認欲求の増大には、無償の思いやりに対する感覚が薄れてはいないだろうかという、危惧を感じられてしまうところです。

2015年9月15日火曜日

なにがそうさせている 生き方編7「感情との付き合い方」

「感情との付き合い方」

人間にとって、この感情という得体の知れないものとの折り合いをどう付けるかが、生きていく上でのテーマだと言えるでしょう。
感情は時に非常に厄介なものとして、私達を苦しめたりもします。逆に感情がなければ喜びも得られないということにもなります。感情が暴走して取り返しのつかないことをしでかす場合もあるでしょう。
また、感情があるからこそ、人は人間らしくあるとも言われたりします。

感情の対局としては一般的には理性と言えるでしょう。
物事を理性的に判断する、感情論ではなく客観的な視野で論理的な説明が出来る。
中にはあまりに理性的だと、感情が無い、機械的だ、とか言われたりもしますが、この能力もそれはそれで人間的であると言えるでしょう。
この感情と理性とのせめぎ合いを、人は常に頭の中で行っているのです。

感情を優先するか、理性を優先するか、それはその人の置かれた状況を自身がどう判断しているかで変わります。
その状況が及ぼす影響によってどういった反応をしているか、それを自分自身が意識的であるのか、無意識であるのかで、受け取るものは違ってきます。
ただ、感情は無意識との繋がりが強固なために、時に理性より勝ってしまう場合があります。
無意識で感情が発動してしまうと、理性は意識の外に追いやられてしまい、論理的な判断力は働かなくなってしまいます。突発的な怒りや、不安感などがそうです。
後から考えれば、なんであんなに怒ったとか、不安になったんだろうとか思ったりしますが、その時は感情が暴走してしまっているので、自分ではコントロール出来なくなっているのです。

この無意識に暴走する感情を、どうやったらコントロール出来るようになるのか。
そうやって心理学や脳科学が研究を重ねてきたわけです。
科学の進歩によって、人間の身体の働きが解明されてきました。脳の分野はまだまだ謎が多いのですが、近年の研究によって、その機能については多くのことが分かってきています。
それに基づいて、人間の身体的な機能を理解することで、感情や思考がどのように働くのかが分かります。
自分の中で感情や思考がどのように生まれてくるのかを知ることが、それをコントロールする第一歩です。

感情は脳の扁桃体によって司られています。この部分は原初の生命体であった頃からのものなので、生命を脅かす驚異や食物を得る喜びに直結して反応を起こします。
理性を司るのは大まかに言うと、大脳の部分にあります。状況を客観的に判断し思考する働きをしています。
扁桃体が生物として原始的な状態から存在していることに対して、大脳の部分というのは人間という種に進化すると共に発達してきた部分になります。

人間が、他の動物のように、常に生命の危機に晒されながら生きていく事はありません。しかし、進化の名残としては、命に関わる危機に対してのエマージェンシーに瞬時に反応するようにプログラミングされていると言えます。
この名残が無意識に働き掛ける事によって、感情が爆発したりするわけです。

人間の社会では、どうコミュニケーションを取るかが問題となりますが、実際はそれによって命の危険性まで発展することは滅多にありません。しかし、他人から攻撃されたりすると本能的に危機と捉えた扁桃体が反応し、感情を膨らませます。ストレスホルモンの分泌により、興奮状態を引き起こし、闘うか逃げるかという身体反応を強化させます。その際、余計な思考は瞬時の肉体反応には邪魔になると判断し、思考回路は停止するよう働き掛けます。
思考回路が遮断されるので、そうなったらコントロールが効かなくなるのは当然です。

解決策としては、扁桃体が反応する前に理性をもって自分を見つめることです。
感情が動きそう、と感じた瞬間に意識して、一度感情を手放すように努めると、暴走は防ぐことが出来ます。

現在の脳科学では、脳の可塑性という事について更に研究が進められています。簡単に言うと、脳細胞は再生(新生)されるということです。身体を鍛えると筋肉が増強するように、脳も鍛えた部分が発達するということです。
近年、脳トレとか盛んに言われているのは、この可塑性があることで、年を取っても脳は発達するからなのです。

さて、脳は鍛えれば強くなるということは、負の感情もそれをくり返すことで増強されると言っている事になります。
事実その通りで、自分に良くないことが起こったときに、常に怒りや悲しみ、憎しみなどといった負の感情を繰り返していると、扁桃体が肥大していくことが、研究によって明らかになっています。
逆に、そういう状況でも、ポジティブな考えを持つように繰り返し意識していると、扁桃体は縮小していきます。

意識的に自分の反応をポジティブに変えることによって、脳内の機能を変化させることが出来るのです。
感情をコントロールするには、意識的に脳を変えていくことでそれが可能になります。
そうなったとき、感情に左右されることなく理性的な思考ができるようになるのです。


2015年9月11日金曜日

なにがそうさせている 生き方編6「比較の社会」

「比較の社会」

私達に問題を引き起こすもう一つの原因となるものが、比較するという行為です。
相手と自分を比べる、そうすることで、自分に対しての評価を下しています。または他人に対しても評価を押しつける気持ち(ジャッジメント)が働きます。
他人や、自分自身をジャッジするという行為を、様々な場面で行っていると言えるのです。

残念ながら、これは社会構造の中で当たり前に捉えられており、誰もが子どもの頃から常に比較対象にされて育ってきている環境にあると言えます。
世の中が競争社会である以上、この環境は避けられません。
しかし、その環境に翻弄されて、自分自身を傷つける必要は全くないのです。
ただ、環境によって比較するという意識を植え付けられた生活を送ってきたことによって、その行為も無意識に行っている場合があります。
むしろ、無意識でのジャッジメントの方が多いかも知れません。
それを読み解くカギは言葉の中にあります。

「やるからには、一番じゃなければならない」
「だれよりも優れていなければならない」
「他人より上手く出来なければならない」

こういった言い方には、意識の裏側に比較する対象がいるのです。
誰と比較して一番なのか、誰と比較して優れていると言うのか。でも、その対象が明確に表されている訳ではありません。自分以外という漠然とした対照群に対して、「〜しなければならない」という意識は強迫観念に近いものがあるでしょう。
この、「〜しなければならない」という言い方に対して、なぜ、そうしなければならないのか、という問いかけは、始めから無視されています。

数年前、某議員が「2番じゃダメなんですか?」という問いかけをして話題になりましたが、これはジャッジに対する問いかけであったと思います。
余談になりますが、ここで問われてちゃんと反論出来なかったところが、比較することが正しい事としている意識があると認めた形になったと思います。
本来なら、順位というのはあくまで結果としてであって、始めから1番や2番を目指すとかいった話ではありません。誰もが常に最高のものを目指しているのが理想なのであって、評価されることを目的としているのではないはずです。ここで1番や2番という話をしてしまった時点で、それは評価に囚われた意識で物事を見ているということを露呈してしまったと言えるでしょう。

このように、人はいつでも何かと比較しようとしています。
ただし、この意識がダメだという訳ではありません。比較があるからこそ自身の成長に繋がるという側面もあるからです。他人がやっていることを見て、自分もあのように出来るようになろうという意識は向上心です。今は出来なくとも、向上心があるから努力を重ねて、いつか出来るようになるのです。
また、自分と相手を比べることでその差を認識し、場合によっては欲求が生まれます。欲求も人間にとっては進歩に繋がる意識です。この欲求があったからこそ、人間は進化してきたとも言えるのです。

比較すること自体に問題はないとすると、問題を作っているのは、それを解釈している自分自身にあるということになります。
そこには、競争という原理を善し悪しで捉える意識が大きく関わっているのです。
「1番でなければ、ダメである」
このような概念を根底にすり込まされているとしたら、1番意外は悪い事と捉えても不思議ではありません。
1番になれない自分自身をジャッジして自己卑下に陥るかもしれません。
もっと大きな括りで、出来る出来ないの2極で良い悪いと定義してしまったら、出来ないことは悪い事として捉えてしまい、出来ない=悪い自分というレッテルを自分に課してしまうこともあるでしょう。
自分に向いてジャッジする場合は、自分を責めたり、自己嫌悪に陥ったりという精神的な落ち込みになりますが、相手に向かった場合は、怒りや蔑みといった感情に支配されることになります。
つまり、どちらにしても根底には比較とジャッジメントが働いていることを理解する必要があるのです。

そもそもが、比較に優劣を付けるという考えに支配されている事を認識しなければなりません。
優れているとか優れていないとかは、能力の差であって優劣の差ではありません。平等であるというのは、能力の差があっても、そこに人としての優劣はない、というのが本質です。
競争社会に疑問を呈する形で、運動会の徒競走などはみんなで手を繋いでゴールするという話を耳にしたことがありますが、これでは逆に能力の差を認めない社会という方向性に陥る危険性を感じます。
みんな一緒でなければならない、という意識が個別のパーソナリティの発現を抑制させてしまったり、ひとと違った行為に対しての恐怖を生み出したりする原因となるように思われます。

能力の違いに差を付けて、劣っているものを否定する、という考え方を持っていないかどうか、色々な場面において自分に当てはめてみると、驚くほどジャッジメントを行っている自分に気付くことと思います。
ジャッジメントが行われるたび、自分自身の感情が揺さぶられ、こころ穏やかではいられない自分を作りだしています。そうやってストレスを溜め、精神的に疲弊している自分がいます。
さて、それは本当に自分にとって必要なことなのでしょうか?


2015年9月8日火曜日

なにがそうさせている 生き方編5「問題の解消」

「問題の解消」

何か問題を抱えているという時、突き詰めていくとそこには人間関係の問題が出てきます。
社会生活を送るうえでは、必ず誰かとのコミュニケーションが発生します。そこに何らかの不都合が生じることで、精神的な問題を引き起こすのです。
そこには対象となる相手に対して、何か不快感を持った自分がいるわけです。
この不快感を探っていくことで、自分の持っている精神的な問題が明らかになります。それが自分自身を見つめる事であり、癒しに繋がることでもあります。

本当の癒しとは、自分の抱えた問題が解消された状態です。行楽やレジャーなどで、癒やされたと言っていても、日常生活に戻って問題が解決していないのであれば、それは一時的な逃避でしかありません。
リフレッシュという意味ではストレスの解消に役立つかもしれませんが、問題の根本的な解決は別の所にあります。

コミュニケーションの問題において、なかなか解決に向かわない要因がいくつか挙げられます。
ひとつは、問題となる原因を相手のせいにしている場合です。
「〇〇さんが悪い」
「〇〇さんのせいでこうなった」
こういう思いでいる限り、問題の解決にはなりません。
なぜなら、相手が変わらなければ、何も変わらないからです。
しかも、自分の思うとおりに変わってくれなければならないのですから、そんな都合良くいくわけがありません。

夫婦間の諍いなどは、この典型的な例ではないでしょうか?
「夫が家事を手伝ってくれない」
「いちいち細かいこと言われたくない」
そんな場面がありませんか。
これらは全て相手に要求していることです。自分の思ったとおりに行動してくれない不満を、相手にぶつけている行為です。しかも一番身近な存在であるから、お互いが自分の事を分かって欲しいという気持ちがあるので、逆に些細な事でも気になってしまう事でしょう。
夫婦であるなら、こうしてぶつける事も出来て、それで歩み寄るという場合もあるでしょうが、他人となると、なかなかそうはいきません。どうしても不満をこらえてしまうことになり、それがストレスであり問題となってしまいます。

これを解消するには、自分が変わらなければ解決には向かいません。
他人を変えるより自分が変わること、とよく言われますが、これは全くそのとおりなのです。
人は誰もが自分が正しいと思っています。会話をしていて、それは間違っていると言われたらちょっとムッとくることがあるでしょう。お互いが自分が正しくて相手が間違っていると主張していたら、平行線は続きます。
さらに、ここには自分の事を分かって欲しいという承認欲求も働きます。
人は常に共感されたいという思いも持っているので、否定されることが恐怖でもあるわけです。
間違っていると言われると、それは否定されたことになり、無意識の中で恐怖は闘争本能を引き起こします。そうすると、間違っているといわれたら、食って掛かるという行動に繋がったりするのです。
逆に何も出来ない場合は、そこから逃げることになります。議論は避けるとか、我慢するという行動になりますが、本来逃げるというのは不快な事なのに、そこは無意識で行っているので、不快感だけが意識に残ることになります。

相手から言われてムッとしたり、避けたりしている事は、自分は変わらないと頑なになっている事です。
そんなに自分も変わる事に抵抗があるなら、相手だって同じです。
自分が出来ない事を、相手にだけ押しつけるというのは、ちょっと理不尽とは言えないでしょうか。
それよりは、まず自分が変わる事の方が、よほど楽なことだと思います。

自分が変わるには、その無意識に行っている抵抗が何なのかを探ることです。
なぜ相手がそれを正しいと思っているのか、そしてなぜ自分はそれを間違っていると考えているのか、そこを読み解いていく作業が必要になります。
まず、相手が置かれている状況や立場は、自分とは違うということを認識しましょう。状況や立場が違えば、考え方も違っていて当たり前です。その人にはそう考えなければならないという正当な理由があるのです。
同じように、自分にも自分がそう考えている根拠があるはずです。
意識しているものもあれば、それが無意識に行っている場合もあります。

対人関係の中で、何か問題や不快と感じたら、一旦そこに意識を向けて、相手の何が自分の感情に触れたのかを考えてみましょう。特に無意識は感情と密接に繋がっています。そこが刺激されるから不快や嫌悪などが生じるのです。
感情が揺さぶられると、それに反応するパターンが無意識に発動して自動思考が働きます。
自動思考は、自分の中で常に同じ行動パターンをくり返していき、強固なこだわりになっていきます。それが変化することを妨げている要因です。
そもそも、なぜこだわるようになったのか、なぜそれが不快と思うのか、それは自分で作りだした思いなのです。
それに気付いてしまえば、問題と思っていたことも受け入れられるようになります。
そうなったとき、自分は変われたということであり、問題も解消するはずです。




2015年9月4日金曜日

なにがそうさせている 生き方編4「無意識の行動」

「無意識の行動」

誰にでも何かしらの癖ってありますよね。
貧乏揺すりをしたり、爪を噛んだり。

そういうのって、自分でも気付かずにやっていて、人に指摘されるまで分からなかったりします。
癖になってることは、無意識で行動しています。
目で見て分かるような行動に表れる癖なら、指摘されたり、自分で気付くこともあるでしょう。よほどその癖が恥ずかしいことだったりしなければ、特に気にしたりはしないかもしれません。しかし、さすがにこれは恥ずかしいとか、変に思われるのが嫌だとか、そういう強い思いがあるなら、なんとか癖は治そうと努力するでしょう。
ただいつも無意識でやっていることなので、少しでも気を抜いていたら気付かずにまたやっている、そういう経験はあると思います。
癖を治すことは、かなり意識していないと難しいことです。

無意識の中に刻み込まれた癖は、何か特定の状況に置かれた時に発動するという、自動行動になっています。身体は自動的に動いているわけです。
奇妙で目立った行動だったら、変な癖ということで周りからも意識されるでしょうが、普段の行動パターンというのも、それは無意識で自動行動しているのがほとんどなのです。

意識と無意識、顕在意識と潜在意識とも言いますが、脳科学ではこの割合が3%〜5%:97%〜95%であると言われています。少なくとも95%が無意識であるということになります。
つまり人は意識的に行動している部分が約5%程度で、あとの行動は無意識によって動かされているのです。

人間の脳は学習した事を記憶します。そしてそれが反復行動される事によって、無意識に刻み込んでいきます。
脳は常に新しいことを学習していかなければなりません。意識的に物事を考え、新しい状況に対応していく方策を練っているのです。日々情報は更新され、それを処理するだけでも大変な労力となります。ですので、なるべく考えなくて済むような行動パターンは無意識の領域に追いやる方が効率的なのです。
こうような脳の働きがあることで、人は常に新しい事にチャレンジしていく事ができるようになっているのです。

これは行動だけではありません。思考のパターンというのも無意識に刻まれているということです。
癖がなかなか治らないのと同様に、無意識の領域にある思考パターンも簡単には治りません。
やっかいなのは、無意識の思考というものに、本人に全く自覚がないということです。
目に見える癖ならば、その行動は変だよ、と指摘できます。それは本人も自覚できるでしょう。
しかし、その考えはおかしいよ、と言っても、なかなか受け入れてはくれません。
思考についても、そのほとんどが自動思考しているのを理解されていないのです。

そもそも癖という言い方は、何か目立った奇妙な行動であるから癖と言うのであって、ほとんどの行動は全てが癖になっている、と言えるのです。考え方にしても、その人の考え方は癖であって、何かしらの影響によって反復処理されたものがパターン化した思考として無意識に刻み込まれたものなのです。
そしてそれが個性であり、その人らしさといったもので捉えられているのです。

それまで生きて来た中で、無意識の領域に蓄積してきたものは膨大なものでしょう。そう考えると無意識が95%を占めると言われても、なんだか納得出来るように思います。
無意識からは行動パターンの信号が発せられます。この信号は95%という割合から言っても強力なものです。
絶対的支配者の命令のように、ついついそれに従ってしまいます。
理論的思考が、それはちょっと違うんじゃないの、と思っても命令は絶対です。従わざるを得ません。
意識と無意識のせめぎ合いは、どうしても無意識の方に分があるわけです。

それを変えよう、というのですから、よほど意識に強く働き掛けなければならない事が分かります。
行動の癖を治すだけでも、相当の時間がかかります。

実は自分もお箸の使い方に癖がありました。19歳ごろまではえんぴつ持ちだったのです。
それまでは、特に気にせずにいたのですが、バイトをした所で指摘されたのがきっかけで治すことにしました。
たまに出るようの癖とは違って、食事は毎日ですから、その都度箸の持ち方を意識したのですが、慣れないうちはこれがとても食べにくいのです。
始めのうちは指がつりそうになりながら食事していました。
そのうち、なんとか慣れてはきましたが、それでも全く意識せずに箸が使えるようになったと感じたのは1年後ぐらいのことです。毎日意識していても、無意識で出来るようになるまで、それだけの時間がかかったのです。
そう思うと、今までの行動を変えようとしても、そう簡単に身につくことではありません。
それでも、15年以上身体に刻み込まれた行動を1年で矯正出来たわけですから、変えようと思えば変えられるのです。

それには、意識的に行動すること、無意識を意識すること、それを継続するよう心がけることです。
やろうとしている事が意識せずに出来るようになったとき、それは身についたと言えます。


2015年9月1日火曜日

なにがそうさせている 生き方編3「殻や壁の本質」

「殻や壁の本質」

殻や壁で守っているものは、自分自身の信念にあります。

「私ってこういう人だから・・・」
よくこんな言い方をしている人がいませんか。

「こういうの上手く出来ないんだよね。ほら、私って不器用な人だからさ〜」
これは、上手く出来ないという自分の評価に対して、不器用だということで正当性を付けようという気持ちの表れです。
不器用なんだから、上手く出来なくてもしかたが無いんだというアピールです。
これも一種の殻であり、壁でもあるわけです。

上手く出来ない事を、周りから責められる。
または、周りからの評価が下がる。
そういう状態になることで、自分が傷つくことを避けたい思いがあるわけです。

責められる前に、不器用であることを宣言して、周りには仕方が無いと思わせる。
自分が不器用だと思い込む事で、この件に関しては下がる評価を受け入れる。
こういった心理が働いています。
そうすることで、次回から同様の状況が起こったとしても、自分は上手くやらなくても済むという保険を手に入れるわけです。

器用か不器用かは、ひとそれぞれの個性なので、本来ならそこに優劣を付けるべきものではないはずです。しかし、人はどうしても他人と比較して出来る、出来ないという評価をして生きて来ています。
こどもの頃から、
「〇〇ちゃんは出来るのに。」とか
「みんなやれるのに、なんで出来ないの。」
といった言われ方をして育っていたりするので、しかたが無い部分もあるでしょう。
「ほんとにあなたは不器用ね。」
などと親から言われて育ったとしたら、本当はコンプレックスであるのに、それを正当化して自分自身を納得させるという方法で、傷つくことを回避してきたと言えます。

誰でも、人から責められるのは嫌なものです。
それで怒られたりしたら、その行為自体が恐怖の対象になってしまいます。
恐いことをやろうとするから、余計に不安感がつのって、パフォーマンスが落ちてしまいます。
そして上手く行かなかったら、また責められる。
それをくり返していくうちに、自分はこういうことには向いていない。出来れば避けて通りたいという思いが強くなります。
そうやって自分は不器用だという思いが育って、信念となっていきます。

ここまで来ると、なかなかその思いは変えられません。
自分で信念まで育てたものを、自ら壊すのは並大抵では出来なくなります。
ものごころついた時から、そういう状況は避けて通ってきた事なので、もう自分からやろうという気にはならないはずです。勧められても絶対にやらない、とか言って拒否したり。

この様に、信念となるまで育てた思いが、殻となり壁となっていきます。
自分は不器用である、という思い込みも自分の中では信念としてあるでしょう。
しかし本当は、”上手く出来ないのはダメな人である”というのが根底にある隠れた信念なのです。
出来ないやつ、ダメな人間、そういうふうに周りに思われる事が恐い。
この思いが根底にあるので、そう思われない為の自己防衛として不器用な人間である自分を作りだしているのです。

一見、「わたしって不器用だからダメなんだよね。」
といって自己卑下しているように見えますが、本当は人一倍、出来ないという事にコンプレックスを抱いているのです。
ですから、そこを強く刺激すると、パニックになるか、逆に怒り出すという事も起こる可能性があります。
逆ギレするというのは、そこを突かれるとあまりにも痛いという逃走闘争本能からくるものです。なので、怒っている人は、そこが本当は恐いことなんだなと理解できるのです。

このように人は恐いことから殻や壁を作って、避けて通ることをしています。
自分に殻や壁があると思うなら、その元となった部分にある恐れを探してみましょう。それが分かれば、自分自身のことがよく見えて来ます。ただ、恐いことには触れたくない、というのが心情です。そもそもそれが恐いので避けて通ってきたので、もはや無意識の領域にまでなっていると、回避行動も自動的に働いていたりします。自分でも本来の理由はよく分からないといった状態になっていたりすると、なかなか自分で恐れの根源を探るというのは難しかったりするでしょう。
客観的なアドバイスをもらうことで、気づけたりもするので、意識して誰かと話をしてみるのもよいと思います。

しかし、殻や壁を作って避けて通っていた恐い事は、本当に恐い事なのでしょうか。
この例でいえば、そもそも上手く出来なかったことで、責められたという状況がありました。
恐いのは責められた事のはずです。
上手く出来ようが出来まいが、それ自体には良いも悪いもないのです。

上手く出来なかった→責められた(ダメな人)→苦痛

この苦痛を回避するためには、責められないような対処をしなければならない。
そうやって自分が反応した対応が、不器用な自分であるという自己像になりました。
しかし、ここで責められなかったらどうでしょう。

上手く出来なかった→それでも褒められた→快楽

もし、こういう状況であったなら、そこに恐れの感情は起こらなかったはずです。
つまり、上手く出来なかった事、不器用であるという事には、何の意味もありません。
問題となっていたのは、責められた事にあるのです。
責められて、苦痛を感じたことに、自分はどのような反応をしたのか、ということが殻や壁を作った理由にあるのです。

苦痛は責められた事なのですが、それを今度は自分がダメだから責められる、と内部変換してしまうと、上手く出来ないのはダメな人である、という思い込みになります。
こうなると、本当の原因とは違うところが問題だ、とすり替わってしまい、自分でも根底にある恐れに気付けなくなるのです。

自分が不器用なのが問題だと思っていたことが、それは問題ではない、と気付くことが殻や壁を破る為のアプローチです。
殻や壁を破るとは、そもそもそんなものは必要無い、という気付きを得る事なのです。



2015年8月27日木曜日

なにがそうさせている 生き方編2「殻を作っているのは何」

「殻を作っているのは何」

殻や壁を作るというのは、内側と外側を隔てる行為です。
内側は自分自身であり、外側は自分に及ぼす影響全体を指します。
人間は常に外界から、なんらかの刺激を受けて生きています。そしてそれは自分を取り巻く環境から大きな影響を受けていると言えます。
一番影響力の大きな存在は両親でしょう。
家庭環境とは、すなわち両親との関係性による部分が大きな位置を占めています。さらに兄弟姉妹、祖父母という家族との関係性、次に友達となる人との関係性、といったようにコミュニケーションの巾が広がるにつれ影響を受ける対象も広がっていきます。

このように、人は常に外側からの影響にさらされて生きていきます。
その外側から及ぼされる影響に対して、それを自分にとって良いことであるかどうか判断し、どの様に対応するかを選択しています。
もちろん、自分自身も意思表示という方法で、周りに対して影響を与えてもいます。
赤ちゃんの意思表示は泣くことです。
泣くことによって、自分の求めるものを得ようという行動です。それに影響されて親は何事かと赤ちゃんを気に掛けます。
この時、泣いている赤ちゃんがほっておかれたらどうなるでしょう。
赤ちゃんにとって、最大の意思表示である泣くことが誰にも伝わらないとしたら、その赤ちゃんは、泣いていても欲しいものは得られない、という思いになりませんか。
それが、赤ちゃんの認知した状況ということになります。

次に、認知した状況に対して、どのような反応をするべきかを自分の中で作り上げます。
この場合、
泣いていても疲れるだけだから、泣くのは極力止めよう。
と考えたとしたら、あまり泣かない赤ちゃんになるかもしれません。
あるいは、
泣くだけでは不十分だ、自分から動かなければならない。
そう考えたとしたら、人一倍早くハイハイが出来る子になった。
ということもあるかもしれません。

このように、起こった一つの現象である状況を、どのように認知して行動するかで人の心理を探求するのが認知行動心理学の考え方です。

赤ちゃんは、そうやって自分の周りに起こった現象を捉え、自分の中でどの様に行動するかを決めていきます。もちろんそれは自分にとってそれが都合の良いであろうことを選択します。
生まれたばかりの人間の赤ちゃんは、周りから手を掛けてもらわないと生きていけません。
赤ちゃんの泣く行為は生きるという意思表示であり、生かして欲しいという自己主張でもあります。
生存という、生命の根幹に関わる問題に、赤ちゃんは生まれてすぐに直面するわけです。
この瞬間から、自力で生きる為の選択という自己選択決定権が与えられる事になります。

赤ちゃんは自己中心的欲求の塊です。
それは生存に直結する欲求ですから、当然と言えます。
これは生命の根源でもあるので、人としても例外ではなく、むしろ本能としてこの欲求を満たすために行動すると言っても良いでしょう。
この欲求は無意識の中に深く刻まれているので、普段意識することは滅多にありません。しかしその部分が、自分でも気付かないまま、少なからず感情や考え方にバイアスを掛けている事でもあります。

さて、赤ちゃんであるうちは良いのですが、自己中心的欲求を満たすための行動は、段々と制限されていきます。
そのうちに、「わがまま」と言われちゃうわけですね。
赤ちゃんは日々新しい事に興味を持ち、色々なものを得ようという欲求が膨らみます。人間の社会で生きていくには、人とのコミュニケーションは不可欠であり、社会の情報を得ることは生存に関わる問題であるからです。
生命として孤立しては危険である、という意識が本能として備わっているとしたら、人が誰かと繋がっていたいという欲求は自然なことであり、一人になることへの恐怖という意識は無くならないのです。
現代の問題には、このコミュニケーションによる問題が、とても表面化しているように思われます。

こどもが成長する過程で、自己中心的欲求による意思表示と、それに対して周りが反応した事によって起こる現象に、自分がどう反応するかでコミュニケーションの方法が決められます。
そのように反応することが、自分にとって都合がよいと判断するわけです。
そういう現象を繰り返していくことで、自分の行動パターンが決定づけられていきます。
このことによって、自己が形成され自分とはこういう人間であるという自意識となっていくのです。

殻や壁というのは、往々にして他者との間でのコミュニケーション中に、自分にとっての何かしらの不都合な現象が起こった場合に表れると言えます。
殻や壁というのは、防御したいということですから、それ以上触れて欲しくないという反応ということになります。
その事に関しては、自分が子どもの頃から培ってきた行動パターンに当てはまる反応をしているわけです。自分はそれをすることで自己形成してきた、これが自分なんだという揺るぎない信念があるのです。
信念という認知が自分にあるので、それはとても強固なものとなっています。
なぜなら、常にそれは自分にとって不快なものだという認知を繰り返してきたからです。

しかし、よく考えてみると、自分が不快と思っている事でも、他の人にしてみれば全く気にならない事であったりします。
これはどういう事でしょう。
つまり、それを不快と思った、認知したのは自分であって、同じ環境であっても、そうは捉えない人もいるということです。
同じ環境で育ったはずの双子であっても、性格が違うというのは、それぞれの認知のしかたが違っているからなのです。

まずは、殻や壁を作った原因となる現象が何か、自分自身の中で探ってみることです。


2015年8月24日月曜日

なにがそうさせている 生き方編1「自分の殻を破る」

「自分の殻を破る」

自分の殻を破る、壁を壊す、ブレイクスルーする、言い方はいろいろありますが、自分を変えたいと思っている人はかなりいると思います。
自己啓発の本を読んだり、セミナーに通ったり、色々な方法を試して、変わりたい自分を求めていることでしょう。
しかし、それで本当に変われたという人は、はたしてどれくらいいるのでしょう。
もちろん、それで全く変わらないとは思えません。
新しい発見があり、いままで気付かなかった物事の捉え方を受け入れた時に、変われた自分に出会うかもしれません。だたそれで自分の殻が全部無くなったと言える状態になったでしょうか?
もしかして、また別の殻があることにも気付いたということはないでしょうか。

多分、本を読んだり、セミナーに行ったからといって、いっぺんに自分の殻が無くなったという状態には、なかなかならないはずです。
そうでなければ、あれだけ同じ内容の本が際限なく出版されることはありません。
本を読んで何かに気付いた時、殻の一部が破れる、というところでしょう。同様にセミナーに行って今までと違う体験によって、違った自分を発見するのかもしれません。
その時、なるほどこういう事だったのか、と理解したことでしょうが、日常生活に戻って暫くするうちに、また元の自分に戻っている。
そういう感じを抱いている人はいませんか。

殻を作ったり壁を作ったりした自分は、今までその殻を磨き、壁を強固にすることに努めてきたはずです。年月を掛けて積み上げてきたものを、今になって壊すということには、無意識の中に抵抗感があるのです。
慣れ親しんだ習慣ですから、それを変えていくには、常に意識的に新しい行動習慣を自身に課していかねばなりません。なんでもそうですが、慣れるまでは多少の苦痛が伴うのです。
人間は理性よりも感情を優先させがちです。頭では解っていても、気持ちが乗らないと、今までの行動パターンの方が楽なので、そちらに流されてしまいます。
本を読んで理解したとしても、それを行動に移すには今までと違ったエネルギーが必要になります。それを発見したときは、気持ちも高揚しているので、やる気のエネルギーが勝っています。ですが、日常ではそれを持続する方が労力になってしまうので、なかなか継続できないということになってしまいます。
また、セミナーでの効果はより高いものと思われます。
そもそもがセミナーという非日常空間での体験であるので、環境の違う中での自分という特殊な状況による成果が生まれます。これはとても強力で、自分が変われた感覚がより感じられることでしょう。
日常という枷が外れる事によって、今までにない行為が出来るようになります。
その時の行動パターン、思考パターンというものが、確実に身について意識せずとも同じ行為が出来るなら、そのミッションはクリアしたと言えるかもしれません。
しかし、これも日常生活に戻った時、また以前のような行動や思考になっているとしたら、完全に殻を破ったとは言えません。
せっかく大きく穴をあけた壁だったのに、また自ら穴を修復していった事になってしまいます。

多分、ほとんどの人が、そういう状態で元に戻ってしまうのです。
すると、せっかく発見したその方法が、自分には合っていなかったからだ、と考えて、また別の方法はないかと探してしまうことになります。
そうやって、次々と新しい方法を求めて本を読み、セミナーに通うという行動を繰り返してしまうのです。

本当なら一度破いた殻や壁は、無くなったままであるはずです。それがまた出来るということは、再び自分自身で作り上げている、という事です。

殻や壁は、自分で作っている。

この事をきちんと理解しなければなりません。
こう言われると、
「そんなのは解ってるんだ、だから壊したいのに!」
そう思うかもしれません。

では、なぜその殻や壁を作ったんですか?

こう質問されたら、明確に答えることは出来ますか?

殻を破ること、壁を壊すことにばかり意識を向けていますが、そもそもその殻や壁を作った目的はどこにあったのでしょう。
その殻や壁は、あなたにとってとても必要なものであったから、自分でせっせと作り上げてきたもののはずです。
なぜあなたにとって、それは必要だったのでしょうか?

殻や壁は必要だったから存在しているのです。必要がないとなれば、要らないものです。
そうなればそこには何もありません。

殻や壁を作るということは、その中に何か守るべきものがあるからです。
外と内を隔てるものを作るということは、内側にある何かを守る必要があると思っているからに他なりません。
そうまでして守らなければならないものを、あなたは持っているという事です。

その守るものをそのままにして、殻や壁だけを壊そうとしても、その行動は、本来守るものを見ないようにして殻や壁を壊そうという行為です。殻や壁を壊したと思っても、守るものがむき出しになっただけなので、壊したはずの殻や壁をまた修復しようとしてしまうのです。

殻や壁を壊したとしても、根本の解決にはならないというのは、こういった構造によるものです。そうなると、いくら殻や壁を壊す方法を変えていったとしても、その行動には意味が無いということが解るはずです。

それでは、この守っているものとは、いったい何なのでしょうか?



2015年8月22日土曜日

なにがそうさせている ビジネス編13

「成功とはどこにあるのか」

ビジネスで成功すると言った場合、まずは収益を上げていくことが挙げられると思います。
会社を大きくして、株式上場する程の大企業になること、これも成功と言えるかもしれません。
では、どこまで大きくなれば成功のゴールとなるのでしょう。
収益を上げ続けて、会社を大きくしていくことには際限がありません。
そうなると、成功とはゴールのないものになります。
成功することが目標である、とした場合、目標とは想定した結果を達成することですが、収益や会社の拡大が成功であるなら、到達点はどこにあるのでしょう。

世の中の仕組みでは、成長と共に衰退もあるのが原理です。
売上げの向上、会社の成長も一定期間を経た後、衰退期に入っていきます。向上、成長が成功であるとしたなら、衰退となったとき成功は失敗になるのでしょうか。

ほとんどの人が目標として成功することを望んでいます。
しかし、成功の捉え方によっては到達点のないものになってしまいます。
他の人を見て、あの人は成功者だ、あのように成功したい、と言いますが、それは何をもって成功であると言っているのでしょう。
自分には無いものをを持っている、自分にはできない事をしている、そういう人を指して成功している人という意識を持っていませんか。そこには自分と相手とを比較している考え方が根底にあります。
では、そうした成功者と思える人に「あなたは成功しましたね」と尋ねてみたとしたら、ほとんどの人は「そんなことはありません」と答えるでしょう。
それは自分の中での成功というものには、到達点がないからです。
本人は成功している自覚は無いのに、他の人からは成功者であるという目で見られる。持っていない者には、持っている者が成功者として見えるという事なのです。

では、成功の本質とは何なのでしょう。
この様に目標達成の結果を成功としたら、成功に終わりはありません。成長への欲求自体は人間の本質で、新たな目標は常に掲げられ、限りはありません。だとしたら、そのプロセスこそに成功の本質はあるのです。

一言で成功と言っても、それはその人の捉え方によって違います。人の数があるだけ成功はあると言ってもいいでしょう。自分は何を成功と考えているのか、ということです。
改めてそう問われた時に、あなたは何を思い浮かべるでしょうか。
収入ですか、地位ですか、それとも権力とか。
「いやいやそんな大それたものじゃなくていいんだ、会社が上手く行っていればいいんです。」
「ちゃんとした暖かい家庭を築いて、平和に暮らすことです。」
「私にとっては、結婚できたら成功です。」
なるほど、なるほど、では会社が上手く行くってどういう状況ですか? 平和に暮らすとはどの程度の事ですか? 結婚したらその後はどういう暮らしでも良いのですか?
ここで言っている事は、全てが条件付きの目標である、ということです。
こうなりたい、という条件を付けた時点で成功という本質からはズレていきます。
条件を付けたものは、目標であり、達成するという結果を求めているものになります。
始めに言った、成功者に対する思いというのは、その人が達成した一つの状況が、自分にとっての目標であるという意識のすり替えで言っていることなのです。

本来、成功という意味では、目標とした結果を達成できたら成功であると言います。
逆の意味で失敗と言えば、予想もしくは予定した結果が得られない場合を言います。
何かを予想して行動するという事は、日常のどんな場合にでも当てはまります。つまるところ、生きている中で成功と失敗は常に繰り返し行われているのです。
ところが、「ビジネスで成功するには」「人生の成功を手に入れる方法」といったものを目にすると、何か究極の到達点があるように思ってしまいます。
または、周りの人に「成功しなければダメだ」「必ず成功しろ」「成功者になれ」というような言われ方をすると、自分にとって何が成功なのかを明確に解らないまま、他者の示すところの成功を追い求めてしまいます。

近代社会では物質的欲求を満たしていくことが求められた事でした。裕福さというのが一つの成功という意味で人々の中に意識されたことであると言えるでしょう。
ビジネスにおいては、収益を上げることを第一としますから、その意味では物質的欲求の成功には当てはまると言えます。しかし成長の欲求を満たすとすると際限がありません。むしろビジネスにおける成功というなら、拡大ではなく、利益を継続して確保することこそが成功であると言えるでしょう。

成功という言葉が拡大解釈されて一人歩きすることで、よけいな迷いが生じているのです。
人生の成功、とか成功する生き方とか、本来そこには数値で表されるような決まり切った状況があるわけではありません。千差万別の生き方があるだけです。それをさも何かを見つければ成功というカギが手に入るというように思ってしまうと、出口のない迷宮に入ってしまうだけです。

人生の成功とは、自分自身が決めた目標を達成することで得られる満足感を言います。目標が大きくても小さくても達成したらそれは成功であると言えます。日常で行動していることは、全て予想した未来に向かって行動しています。それが思い通りに出来たとしたら、それは成功したことです。一つ一つの行動に成功か失敗かを当てはめていったなら、あなたはいかに成功した生き方をしているかが実感出来るはずです。
更に言えば、上手く行かなかった事でも、それは予定した通りにならなかった、という意味での失敗になりますが、その事に取り組んだことに後悔はないはずです。むしろやらなかった時の方が、後悔は増していると思いませんか。
人生における失敗とは、上手く行かなかった結果より、取り組まなかったことの方がダメージは大きいのです。

人生としての成功は、結果ではなく、いかに自分自身の望む事をやり遂げられるかなのです。
自分の思う事をやり遂げ続ける生き方こそが、成功した人生であると言えるのです。


2015年8月20日木曜日

なにがそうさせている ビジネス編12

「リーダーの資質」

数人の集合体によって何らかの行動をする場合、そこにリーダーが必要になります。
ビジネスで言えば、プロジェクトチームのリーダー、会社の部署であったら課長、部長という立場、または店主と従業員という関係もそういえます。
部下の指導、従業員の指導ということで頭を悩ませている人が、案外といるかもしれません。

しかし、この指導という言葉のニュアンスに、学校の先生や教官による指導といった感じがしてしまうところにちょっと違和感を覚えます。どうしても上から目線というか、言う通りにするものである、という感じでしょうか。
同じように、上司と部下、または経営者と従業員という立場では、使う者と使われる者、といった上下関係で話が進んでしまうように感じます。
コミュニケーションの話でも触れましたが、円滑な人間関係を築くことで最高のパフォーマンスを引き出すには、まずお互いが対等であることが前提であると言いました。
この場合も、リーダーとは一つの役割であって、上下関係を意味するものではありません。

リーダーの役割とは、グループの進む方向性を決め、メンバーを導くことにあります。
さらに、そのグループで達成する目標に向けて。それぞれが最高のパフォーマンスを発揮出来る環境を整えることもリーダーの役割です。
そうなると、リーダーの資質としては、グループの皆が自主的についてくるような人間性が必要となります。
個人が最高のパフォーマンスを発揮するのは、それに自主的に向き合っているときです。人から言われてやらされているような状況では、パフォーマンスは上がりません。
そんなことは誰でも身に覚えがあるでしょう。
親に言われて、仕方なくやったとか、先生に叱られて、いやいや補習をやった、とか。
特に立場が上の人から押しつけられた感じでやったことで意欲的に行動したことはないと思います。
ですから、無理矢理「俺についてこい」という事がリーダーであるとは言えません。

経営者や上司という立場を、上からのものとして部下や従業員に接してはいないでしょうか。

その前に、まず明確にしておきたいのが、業務の内容についてです。
システムとしてプログラムされた手順を行うというのは、作業です。
これは誰でもその通りやれば、一定の結果が出るという機械化されたものといえます。
一方、仕事という意味では、個人の能力によって成果を上げられる部分といえます。

作業の部分については、手順を教えるということなので、指導と言って良いでしょう。
誰もが同じ手順を覚えなければ、システムとして成り立ちません。ここでは全ての人に一定のパフォーマンスが求められます。個別にばらつきがあってはならないので、皆が同じように出来るために指導するといえます。
では、仕事の部分についてはどうかというと、ここは個人の能力を見きわめ、それぞれの人がいかに意欲的に仕事に取り組み、生産力をアップさせられるようになるか導いていくことが求められます。画一的なやり方を指導といって押しつける部分ではありません。
この作業と仕事という部分を明確に区別して部下や従業員に接しなければなりません。
仕事の成果は人それぞれの能力によって、やり方は違います。
同じようにやっても、上手くいく人とそうでない人とが出てきます。自分なりのやり方を見つけることで、仕事の成果は生まれてくるのです。
それなのに、上司は自分のやり方を押しつけてくるのです。上司はそれで成果を上げてきた自負がありますから、そのやり方が正しい事であるという自信を持って”指導”してくるわけです。
さて、ここにそもそも指導が成り立たないことがお解りでしょうか。
この作業と仕事を一緒くたにして部下に同じ対応をしてしまうことで、仕事の部分に意欲を持てない状況が生まれてしまいます。

作業については指導、仕事については導き。

リーダーはここを明確に区別して相手と向き合わないと、部下がついてきてくれる関係性を築けません。
さらに、パフォーマンスの向上の為には、それぞれが伸び伸びとした精神状態である必要があります。
人は他人からの否定や批判によって、萎縮してしまいます。そのような状態では考え方も硬直してしまい、良いアイデアも出てこなくなってしまいます。
誰もが自分の発言に対しての周りの目線というものが気になっています。
「こういうことを言ったら、どう思われるだろう」「余計な事は言わない方がいい」「言い出しっぺが責任とらされちゃたまらない」「どうせ言っても採用されない」
こういった思惑が蔓延して、とても静かな会議になったりしませんか。
これでは個人の能力が発揮される場がありません。皆それぞれ発想が違うからこそ、新しいイノベーションが生まれるのに、ここでも変化に対応することを恐れる意識が働いています。
いかに皆と違う事を言うのが恐いことであるかの証明と言えます。

リーダーは、その変化を怖がることはないと示してあげなければなりません。そこに安心感を与えることで、メンバーは自由に発言ができるのです。
メンバーが自由に伸び伸びと仕事が出来る環境を作るというのが、リーダーの役割です。
個別に違う意識の集まりであるメンバーの意見を受け入れ、目標となるものへの最善策を導きだすことが、リーダーの資質なのです。
その資質を培うには、他者との違いについて認められるよう、自分自身のもつ理念や概念を把握することです。
それには自身の内面に向かって問いかける必要があります。
それが出来ると、変化への恐怖というものも無くなっていきます。
恐怖が無くなれば、率先して変化の先頭に立ち、メンバーに勇気と安心感を与え、先に進むことが出来るのです。そういうリーダーに人はついていくのです。




2015年8月19日水曜日

なにがそうさせている ビジネス編11

「問題という問題」

ビジネスの現場において問題となることは何でしょう。
業績の問題であれば、売上げが上がらない。
はたまた人手不足である、激務である、人間関係がうまくいっていない、などということが挙げられるでしょう。
売上げの問題解決には、これまで述べてきたように、今までの固定観念から抜けだし、変化に対応する方策を実行することにあります。
変化することを恐れ、今までの慣習に囚われているところに問題が発生しているのです。
人手不足や仕事が激務であるというのも、その状況が今までとは違ったものに変化していることへの対応策に問題があると言えます。現状のやりかたが間違っているというのに、それを修正しようとはしないから問題が発生しているのです。
では、人間関係はどうでしょう。
基本的な構造は一緒です。人と対するときにどのような接し方をしているのか、そこに問題があるのです。
接し方が変わらなければ、問題となることは解決しません。

そもそも問題とは、今まで上手くいっていた、もしくは何もなかったところに、不快な状況が生まれたという現象です。不快というのは主観的な事です。人は慣れ親しんだ現状が変化することに不快感を覚えます。
倫理的に良いことだとしても、現状が変わることを躊躇するという心理が働きます。
変わる事への恐れ、慣れ親しんだものを手放す恐れ、未知な状況への不安、こういった恐れと不安が無意識の中に形成されていきます。
売上げが順調に推移している場合は、現状の仕事のやり方で進めていれば問題はないと意識しています。
上手くいっているやり方を継続していくことが成功である、という認知が生まれます。
しかし、実際は細かな環境の変化に対応し、業務を修正していく事で現状の維持ができるのです。
変化しない所に留まろうというのは、楽なことではなく、実は衰退の始まりなのです。

人は年齢を重ねるごとに老いていきます。
肉体の変化と共に、精神的にも変わっていきます。
絶頂の時期にやっていた事に固執するというのは、肉体が若いときのやり方に固執する事と同じです。
こどもの頃の考え方が、大人になっては通用しない事はだれもが理解していることでしょう。
考え方を変えていくからこそ、周りの社会に受け入れられる生き方ができているのです。

つまるところ、この考え方を変化させない所に、問題は生じると言えます。
または、認知の捉え方によって問題となるかどうかが決まる、とも言えます。
先人の成功者達が「ピンチはチャンスである」と言っています。
これは「変化の状況が訪れたことは考え方を変えるべき時である、だから問題ではなく解決の糸口がそこにあると捉えることである」と読み解くことができるわけです。

こうして見ていくと、問題とは人が作りだしているものであることが解ります。
今までとは違った現象を捉えて、それを問題とするかどうかは、その人自身の捉え方であるのです。
ことさら問題意識が強いというのは、現状維持に固執しているという現れであると言えます。
変化することを前提として、あらかじめ対応策を講じておけば、それは問題とはならないはずなのです。

これはビジネス業務に限ったことではありません。
人間関係においても、捉え方という部分で問題は生じています。
自分の環境や精神状態が脅かされる状況を、人は問題と捉えます。
価値観の違いや、意見の相違、侮辱、非難といった行動は、それぞれの持つアイデンティティが違う事で生じるものです。
自分の価値観に従わせようとか、自分の正当性を誇示しようとか、そういう心理が働いていると言えます。
自分自身の考えに固執すればするほど、他人の考えとの間に摩擦が生じるのは当然です。
皆、自分のことは正しいと強固に思っています。しかし本来、正しいも間違っているもありません。考え方が違うとう事実があるだけです。
相手が間違っていると思えば思うほど、それは自分にとっての問題となります。自分の現状を固持しようとして、相手を変えようとするからです。
そうやって自分が変わらないことに固執しているのに、相手は変えようとする。実は相手だってそうやって同じ事をしている、ということに気が付けば、なんと不毛な諍いであるかが解るはずです。

自分自身が創り上げてきた考え方や概念は、無意識に蓄積されてきています。しかもそれは自分にとって、絶対的に正しい事として認知されています。しかし同じように他の人もそうやって自分を形成しているのです。
他を認めないということは、自分自身も認めていないとも言えるのです。
自分と他者との違いが、いったいどこにあるのか。自分が固執する考え方や概念が、なぜ他の人とは違うのかという事を理解すれば、闇雲に自分だけが正しいとは言えない事に気づきます。
違うという事実を受け入れれば、そこには問題は発生しません。自分の領域とはどういうものなのかが理解できれば、相手の主張は、単に自分の持つ概念との違いを表しているだけだからです。
それに対して、どの様に対応するかは自分自身が決めることです。
今まで通り自分を脅かす問題として対応するのか、それは自分の中にあるものとは違う概念として受け止め、変化に対応する自分自身の解決策とするのか、自分で選択するだけです。

つまり、問題は起こっているのではなく、人が作り出しているのです。
問題とする捉え方が違えば、本来そこに問題は存在しないのです。


2015年8月18日火曜日

なにがそうさせている ビジネス編10

「ビジネス・コミュニケーション 2」

お店とお客のコミュニケーションが商売であると言いましたが、コミュニケーションはそこだけではありません。
お店と問屋、問屋と生産者、そうやって繋がりを考えていくと、人が介在する全てにコミュニケーションが存在します。
お店を視点にして外側とするなら、取引業者との関係性においてのコミュニケーションとなります。
この関係性が良好であるかどうかで、商品の確保に影響が出ることでしょう。

本来、コミュニケーションにおいてはお互い対等であるというのが基本です。
立場や状況によってそれぞれの抱える責任の重さに違いはありますが、だからといって、そこに優劣があるという事にはなりません。優劣による交渉にはコミュニケーションとは言えません。
お互いの立場を尊重した上で、対等な人間としての相互理解に基づく行動ができること。
例えば、交渉で一つの決定をした場合、当事者の立場が入れ替わったとしてもその決定で納得できる、というのなら、そこに優劣はなかったものと考えられます。

さて、内側のコミュニケーションに目を向けるとしたら、社内の人間関係という事になります。
実はこの内部の人間関係という部分が、一番の大きな問題を抱えていることでしょう。
職場の雰囲気が悪いとか、上司や部下との折り合いが悪いとか、多くはありませんか。
そんな状態であるなら、やはり生産性の向上は難しいことでしょう。それぞれの人のパフォーマンスが発揮出来ないような職場では、意欲も無くなっていきます。
仕事のシステムは、それが効率よく出来るように組み立てられています。しかしそこに携わっているのは人間です。
人間は機械ではありません。意欲の持ち方によってパフォーマンスは著しく違ってしまいます。
アスリートの世界でも、最終的にはメンタルの持って行き方によって、記録が左右されるのです。
ビジネスも成果を挙げる事を第一とするなら、アスリート同様に人間のパフォーマンスを上げる工夫が必要でしょう。

そこで問題となるのが、コミュニケーションの方法となります。
先に述べたように、コミュニケーションの基本には対等であるという原則があります。
職場での立場というものに、優劣を付けた考え方では、コミュニケーションは成立していないのです。
そこをはき違えてしまってはいけません。
上司であるから偉い、部下は上司の言うことを聞け、というような態度では、まともなコミュニケーションは取れません。
会社での上司とは、経験と知識が新人より豊富であるという立場を言うのであって、人間的に優劣があるという事ではありません。社員教育や指導とは、その先人の経験と知識をいかに早く新人に習得させて、個人のパフォーマンスを上げることが出来るかという、生産性向上に繋がる経営戦略であるはずです。

まだ仕事の出来ない部下を叱責して萎縮させ、やる気を損なうようなことでは、パフォーマンスの向上とはほど遠いことと言えるでしょう。
もちろん、上司の言い分もあるでしょうが、そのような状態になること自体に、基本的なコミュニケーションの取り方にどこか問題があるのかも、と考えてみるべきです。
それは、自分の側にも相手の側にもあるかもしれません。お互いがそこを認める合うことが必要なことです。
独りよがりの精神では、コミュニケーションは成立しません。
相手の立場と考え方を理解し、受け入れる事からコミュニケーションは始まります。

相手を受け入れるには、自分の中にある固定的な価値観を絶対視しないよう、努めなければなりません。
どうしても自分が培ってきた考え方や観念に縛られてしまい、他者を批判、非難してしまいがちになります。
しかし、人間は多様性の生き物です。一人一人考え方も生き方も違うのです。
その大前提を踏まえた上で、自分と他者との違いを受け入れて、共存するコミューンに生きるためには、どう折り合いをつけていきますか、というのがコミュニケーションです。

会社という組織は、決められた目的の為に集まったコミューンであると言えます。その中で、それぞれの立場でどのように目的達成に携わるかが、個人に求められているものです。
新人には仕事というシステムを教えるのではなく、どのような関わり方をしていくかを教えるのが、社員教育や指導なのです。
仕事のやり方だけを教えて、教育や指導とは言えません。それでは作業説明なだけです。
同じ仕事をしたとしても、人それぞれのポテンシャルが違うので、そこにパフォーマンスの差が出るのは当たり前です。しかしそこで優劣を付けてしまっては、格差になってしまいます。
本来なら上司の役割というのは、そのポテンシャルの違いを上手く引き出す事で、適材適所に優れた人材を配置するというものでしょう。
人は、自分の役割をしっかりと理解していれば十分なパフォーマンスを発揮できます。逆に、周りに理解されず、自分の居場所がないと感じている人は、退職していくかもしれません。
活気のある職場というのは、それぞれの人が正しくコミュニケーションが出来ていると言えるでしょう。



2015年8月17日月曜日

なにがそうさせている ビジネス編9

「ビジネス・コミュニケーション」

人は人との繋がりの中で生きています。ビジネスでも、それは変わりません。
必ずそこには人と繋がることでビジネスが成立しています。

最もシンプルに言えば、お店とお客の関係がそうです。お客がいなければ商売は成り立ちません。
売上げを伸ばすということは、つまるところ、お客とのコミュニケーションをより円滑にすることです。
お店側が売れる商品として仕入れるものは、お客の欲求を満たす商品であると思って仕入れるはずです。
それを所有することが、お客にとって何らかの有益(ベネフィット)が得られると考えるからです。
ところが、思ったように売れない。
それはお店側が考えるベネフィットをお客の側では感じていない。もしくは理解していない。ということが挙げられます。
周りの人がみんな持っていて、自分だけ持っていない、という場合は簡単に欲求が生まれます。
人間の特性とでもいいますか、自分だけが除け者になることを恐れる気持ちが根底にあるのでしょうか。
とにかく周りに同調しようとする心理が本能的に働くのでしょう。
その性質を上手く活用しているのが、広告であり宣伝であるわけです。
流行やブームというのも、その流れで発生します。

単純にみんなが持っている、知っているから、自分にも必要であるといった商品が一つであったら、それはビッグヒットとなりましたが、今は多様性が生まれて、必ずしもそれでなければならない、という状況ではなくなりました。
現実には同じような商品は多数存在し、また個人の欲求も人との同調より自身の満足度にシフトしていくことで、より選択肢の多様化が進んでいると言えます。
つまり、お客は与えられるのではなく、自ら商品を選ぶ事が商売の主体となっているということです。

本来、お店側は商品を扱うエキスパートです。
その店が勧める商品であれば、間違いない、と思ってお客が買うのが本来の姿でしょう。
それを突き詰めていけば、ブランドとなります。日本で言えば老舗ですね。
そこには、信頼であり、安心感であり、絆というお客との繋がりがあるわけです。

情報化社会の到来、特にインターネットが普及するにつれ、誰でも膨大な情報を簡単に得る事が出来るようになりました。
今までは足を運べるお店にある商品からしか選択するしかなかったものが、ネット上ではあらゆるものとの比較が出来てしまいます。
いつの間にか消費者の情報量は、お店側の情報と同等かそれ以上になってしまっているのです。
お店側としては、より専門性の高い知識と情報を得なければ、お客のニーズに対応できないという状況が生まれます。
それは、お店のコンセプトとして、お客のターゲットをどこにするかにも繋がります。
今現在、テクノロジーが進化する中で、デジタルディバイドが起こっています。ある年代を堺に、デジタル機器を扱える人と扱えない人といった階層が出来てしまっています。
どちらの階層を主体としてビジネスをするのか、もう一律で対応出来る状況ではなくなっています。
旧態依然のやりかたでは、デジタル世代とのコミュニケーションが稀薄になってしまいます。
しかし、これからはその世代が増えていくのです。
ビジネスとしては、その世代にどう対応していくかの方策がなければ、売上げの確保に繋がらないのは明白です。
逆の世代についても同様に、デジタルを使えないからこそ、社会的に不便さを強いられる立場の人と、どうコミュニケーションを取るかという問題です。
いずれにしても、社会的な変化にビジネスとしてどう対応していくか、それこそが店主であり経営者の仕事です。

時代の流れは、デジタル化が進んでいくことに間違いありません。
たぶんあと20年したら、デジタルを使えない人の方が圧倒的に少なくなることでしょう。
そうなった時、お客とのコミュニケーションの在り方も大幅に変わっているに違いありません。

お店の場合で言えば、今までは店頭商品がお店側のアピールでした。お客は来店してそこから選択しました。
ところが、お客の選択肢が広がったので、お店自身のアピールが必要になります。
ここに来て、お店自身、つまりは店主であり経営者とお客とのコミュニケーションが、事実上の売上げに繋がるということになります。

コンプライアンスという理念がもてはやされていますが、経営者の不祥事で会社の損失が増大するという事件が起こったりしています。これも一種のお客とのコミュニケーションによるものと言えるでしょう。
コミュニケーションとは、相手に自分の事を伝えて、お互いを理解し、そこに信頼を築くということに他なりません。
嘘や、ごまかしがあっては、信頼を築くことは出来ません。

ビジネスというのは、収益があってこそですが、収益のために嘘やごまかしが有るようでは、いずれそれが明るみに出た場合には、取り返しのつかない損害の方が大きくなります。
始めに戻りますが、人は人と繋がっているからこそ、ビジネスが成立します。
お店は商品(サービス)を提供し、消費者はそれに見合った対価を支払い、それぞれが満足感を得られることが、ビジネスの基本的な仕組みです。
そこに、お互いを尊重し分かち合うという精神を持つ事で、より満足感を味わえる事が出来るのです。
どちらも相手の事を思いやるという精神が欠けたとき、コンプライアンスや、モンスターペアレントという問題が深刻化していくのでしょう。



2015年8月10日月曜日

なにがそうさせている ビジネス編8

「プラス思考の落とし穴」

「脳内革命」以後、プラス思考やポジティブシンキングがもてはやされていきました。
精神論や根性論のような気持ち優先の考え方に変わる、思考のコントロールという理論的な考え方が注目されるようになりました。
プラス思考やポジティブシンキングのような前向きな考え方というのは、気持ちが高揚していくので、行動しやすい状態を作ります。
行動を起こせば、必ず何かしらの変化が現れます。
その意味では、停滞した現状から抜け出す方法として間違いではないでしょう。
しかし、変化というのは、捉え方によって良い方向と悪い方向の両側面を持っていると言えます。
全てが良い方になればいいのですが、そういうわけにはいきません。
ところが、過度のプラス思考になると、良い方しか見ないという偏った意識に囚われる危険があります。
その場合、変化によって生じた悪い面を、無視するとか、上手く行かなかったことは、無かった事にする、という誤った選択をしてしまう可能性があるのです。

確かに、プラス思考やポジティブシンキングが有効であるとは言えますが、ただ闇雲に良いことだけ考えればいいんだ、という理解をしてしまう危険性があります。悪い事が起こっても気にしない、失敗しても次がある、こう考えると前向きに聞こえますが、実際はただの慰めでしかありません。
問題は起こっているのに、解決に繋がっていない、または原因究明を疎かにする。
常にそういった思考で本質の先送りをしてしまうと、いずれ大きな問題となってしまうのです。
その時に初めて問題と直面して、自分自身の行いを責めてしまうことになると、こころに大きな傷を作ってしまいます。
気持ちの落ち込みが激しいと、うつの症状になる可能性も出てきます。
前向きな姿勢だからといって、そういった負の萌芽を無視したりしていないか注意しなければなりません。

プラス思考という言葉からも、プラスの方向だけ考えるというふうに取られがちですが、私が考えるには、根拠のないマイナス思考に陥らないことを指していると思います。不毛なマイナス思考をプラス思考で相殺するという感じでしょうか。
何か行動を起こす前に慎重になるのは当然のことです。
そもそも、一分一秒先もどうなるか解らないというのが、この世の中の仕組みです。
人は行動するとき、ある程度の予想の元に行動していると言えます。一度行った行為は経験済みですので、安心して行動できます。しかし、未経験の事を行う場合は、予想される結果をあれこれシミュレーションしなければなりません。
予想する結果に大きなリスクが伴う場合は、慎重にならざるを得ません。
自分に降り懸かるリスクが大きいほど、行動は起こせなくなります。

問題となるのは、そのリスクを過大評価してしまう場合にあります。
先の解らない行動を取るということには、恐怖心が働きます。その恐怖心に囚われると、現実的には起こる可能性の低いはずの状況さえも思い描いてしまい、余計に行動出来なくなっていきます。
これをやって失敗したら、会社をクビになってしまうのではないか、など想定される最悪の事ばかり考えてしまったり、自分が悪者にされてしまうんじゃないか、といった被害妄想に陥ったり。
精神的にその傾向が強くなって行った場合は、不安障害といった症状に至る可能性があります。

時間の中で生きている限り、未来はどうなるか解らないのが本質です。
それでも生物は生きていけるように出来ています。明日の不安ばかりを見ていたら絶望しかないでしょう。人間そこはうまいこと出来ているもので、先の見えない現実はあまり気にしないように作られているようです。
ただし、考えるという万能な知能を手に入れたことによって、不安や恐怖も自分で作り出すことが出来るようになってしまいました。
マイナス思考は不安感や恐怖という思考の暴走です。
普通の状態や客観的な判断が出来るようなら、考えなくてもよいことなのです。
そういう暴走した思考をコントロールする、といった意識が求められるものです。

そういう意味では、過度なプラス思考というのも躁思考の暴走と言えます。
極端な例で言えば、ギャンブルに投資するようなものです。
プラス思考も、マイナス思考も、適切な範囲で活用するのであれば有効な方法です。プラスとマイナスの軸がどちらかに振れすぎることが問題なのです。
思考においても、自分でそれをコントロールしてバランスのよい考え方を身につけるというのが本来の意識改革であると思います。

万物はバランスの中で成り立っています。プラスの時もあればマイナスの時もあり、どちらかが永遠に継続することはありません。
ビジネスにおいても、成長期が頂点になれば減衰が始まります。これは万物の法則です。
衰退に逆らうのではなく、違う物に変化するということが求められていることです。


2015年8月9日日曜日

なにがそうさせている ビジネス編7

「なぜできないのか」

そもそも、これが過去10年以上に渡って考えてきたテーマの一つです。
頭では解っている。理屈では理解している。それなのに、いざやろうとしても、出来ない。続かない。

書店をしていた時の1995年ごろから、分類わけされた自己啓発の棚からが本が溢れていきました。
まだ今ほど本の分類が細分化されていなかったので、自己啓発という棚もそれほどスペースがなく、内容も大雑把なくくりとしてある感じでした。
もう一つ、ビジネス書という分類があり、こちらも明確なくくりがないので、何となく仕事に関わる本という感じで選別していました。
古くからカーネギーの「人を動かす」や松下幸之助の「道をひらく」などが、自己啓発の棚に入っていたりしました。

当初は、個人の成長や自己改革を促すのに役立つ本という捉え方で、自己啓発本というくくりにしていました。ビジネス書は直接仕事に関わるノウハウであったり、技術的な要素のあるものという捉え方で分類しました。
ところが、だんだんとその境界が曖昧になっていきました。
いわゆる、成功本の類いがぞくぞくと出始めた時からではないかと思います。
仕事の成功と自己改革が結びついていくことで、どちらの分類にも当てはまる本が続出します。ビジネスにおける成功者達の手記も数多く出版されていきました。そういう本を読んでいくうちに、どうやら誰もが同じ事を言っているように感じられてきました。

成功者たちは、自分が成功するまでのくだりを詳細に書いてくれています。それを読むと、確かになるほど、と頷けることばかりが書いてあります。
しかしそこで思った事はありませんか?
「その人だから出来たんじゃないの?」
「それはよく分かるけど、自分には出来ない」
「なんかそんなに運良くいくなんて、有り得ない」
そんなふうに考えたことはないですか。
そして「これは自分には合わない。でも自分に合った事例もあるんじゃないか」とまた次の本に手を出す。

始めの頃は自分もそんな気分になったことがありました。
人それぞれ環境も違うし、性格も違うんだから、同じ事は出来ないよ。そう思いました。
でも、これは当たり前ですよね。
同じ事をしようとしても出来るわけがない。それなのに、その人がやっていた事を真似しようとしたのですから、出来なくて当然です。
ノウハウや技術を真似ることは出来ます。しかし、本質はそこではありません。
成功者達が共通して言っていたのは、意識の持ち方だったのです。

中小企業診断士による販売促進のセミナーなどでは、さまざまな成功事例や、取り組みのアイデアなどの提案がされたりもします。正直、それらの事は沢山ある本の中に書かれていることだったりします。それに関しては知識では解っていることで、それよりも自分の店が来月の売上げをアップさせるための具体策は何なのか、商店主が知りたいのはそこです。
しかし、そんな特効薬みたいな方法はありません。むしろ、ここに至るまでにあったであろう、変化のサインを見逃したか、無視した結果が現状を招いたということに気付くべきです。
病気と同じで、病状が悪化してしまったら、劇薬に頼るか、手術するか、いずれにせよ痛みが伴うような変革を迫られることになってしまいます。
そうなってから、変わろうとするから、簡単ではなくなってしまうのです。

知識を得ることは大切です。多くの知識がなければ新たな発想も生まれてこないでしょう。ですが、再三繰り返してきたように、知識を得たから出来るというわけでもありません。それなのに、どこかに上手く行く方法があるのではないか、まだ知らないテクニックがあるのではないか、と情報をかき集めていけば、答えが見つかると思ってしまうのです。

始めにそこに疑問を持ったのが、やはり本を売っていた時のこと。
1995年に大ベストセラーとなって、一大ブームを引き起こした「脳内革命」という本が出版されました。
店頭に並べると、みるみるうちに売れていきます。
「脳から出るホルモンが生き方を変える」
脳内物質やプラス思考という言葉が流行となっていきました。
410万部も売上げ、続いて発売された「脳内革命2」も100万部を超えた売れ行きを記録しました。

これだけ売れたということは、本を読んで生き方の変わった人はさぞ大勢いることだろう。
そう考えても不思議ではないはずです。それなのに、世の中が変わったという気配は全く感じられません。
この後も生き方を変えるための本が数多く出版されていきます。
そして同様に売れていくわけです。
商店街の一角にあった当店では、顧客の大半は固定客になります。ということは「脳内革命」を買った人もまた次の本を買っている、ということになります。
つまり、本を読んだ人は何も変わっていないということです。
変わったのなら、似たような内容の本を買う必要はないはずです。それなのにまたベストセラーが生まれていくとは、どういうことなんだろう、と考えた時に、人は知識を得たから変わるわけではない、という結論に至ったのです。

同様なことは、ダイエット本にも言えました。
毎年さまざまなダイエット方法の本が出版されています。そしてそのどれもが売れていくわけです。前述のように、固定客が主ですから、買いそうな人には、いいかげん行き渡っていると考えても良いはずです。
それなのに、また新しいダイエット方法と謳った本が出ると、またまた同じぐらい売れていく。
去年もそれだけ売れたのに、今年になってもまた売れていく。
これはどう考えても、だれもダイエットしていない、としか考えられないじゃないですか。

結論が確信になって、始めの「なぜできないのか」を追求することになります。
そのためには「こころの仕組み」を知る必要があったのです。

2015年8月8日土曜日

なにがそうさせている ビジネス編6

「こころの仕組み」

意識が変わる程の極限状態では、こころの中で何が起こっているのでしょう。
それが解れば、なにもそこまで追い込まれなくても、人は変われるはずです。

それを知るには、こころの癖というものを理解しなければなりません。
先にも触れましたが、こころは楽な方を選ぶ性質があります。習慣化されたものを繰り返す方が楽であると判断して行動します。
これは、生物の本能的働きとしては正しい事です。生きる為に食料を確保しなければならない時、簡単に食べ物が手に入る場所を見つけたら、そこにいる方が楽に決まっています。
食べるものが無くなったら、次の場所に移動する。動物はそうやって生きています。
人間は生活の場を築き、そこに留まって生きる為に高度な文明を発展させてきました。
知能の発達は、人間の生活を形成するあらゆるものを創り出し、より複雑な生活環境を生きていく為の知恵として身につけてきました。
複雑な作業に集中して考えるには、簡単な作業は自動化されていきます。
このシステムを発達させたからこそ、人間の持つ無限の創造力が形成されました。

機械の自動化はとても便利なものです。
人間もその便利さを手に入れて、自動化のプログラムを思考に取り入れました。
一度覚えたものは、簡単に再現できるよう自動化されます。
繰り返し行動するパターンは、考えずに動けるようになり、思考の自動化が作られていきます。
自動化されたものは、本能の働きにより、それは楽であり正しい事である、と認識されます。

しかし、ここに落とし穴が潜んでいるのです。一度思考でプログラムされた自動化は、なかなか変える事ができません。そもそも考えずに行動するというプログラムなのでで、それ自体を考えるというプログラムが存在しない、もしくはあっても働かない状態にあるわけです。
まず、それが自動思考であることを、認識しなければなりません。次に自動思考で行っていたプログラムを、新しいプログラムで書き換えないといけません。
これが認知の変換です。

人は生まれた時の周りの環境から情報を得て、生存していくためのノウハウを蓄積していきます。その方法は人それぞれであり、それがその人の人格形成に大きく影響を与えていきます。
両親の様子を観察し、取り入れる部分は取り入れ、反面教師となる部分はそれをしない、といったようにして自分というものを作っていきます。
様々な考え方の中で、自分自身が取り入れてきたものが、やがて自分の考えとして定着します。
しかし、そのようにして形成した自分は、数々の考え方のある中の一部を取り込んでいるに過ぎません。
そして自分にとって都合の良い部分だけを集めて、それをさらに自動化することで、意識が成り立っているのです。

自分が形成してきたものは、自分にとって常に正しい判断をしてきた、というのが人間の性です。
それが間違っているわけではありません。ただそれだけが正しいとは言えないということです。
人は誰でも自分を正しいと思っています。なので、人の数だけ正しいが存在することになります。
自分が正しいに固執すると、諍いの元となってしまいます。
相手を否定することになってしまうからです。
人は否定される事を嫌います。否定されると、怒るか、落ち込むか、まともではいられなくなります。
しかし、本来はどちらも間違っていない、という事に気付けば争いは無用になるはずなのです。

自分自身が積み上げてきた考え方を変えるというのは、自己否定に繋がってしまいます。
否定するということは、恐いことなのです。しかも、それ自体が無意識の中にプログラムされているのです。
つまり、考えを変えるということは、いけない事(恐怖だから)という自動化が働いているのです。

これが、簡単に意識を変えられないメカニズムです。
やっかいなのが、恐怖というのは理性ではなく、感情であることです。
意識によって作られた思考のプログラムは、意識によって書き換えることは可能です。
この状態は、「頭ではわかってるんだけどなぁ」とか「理解はしている」という言い方で表現されます。
よく聞く話ではありませんか?
理性では納得しているはずなのに、行動できない。

人間が行動するには、感情の作用が欠かせません。この場合、恐怖という感情が根底にあるという事に気付いていないのです。恐怖を感じると、本能的に緊張感が高まります。動けなくなるというのもそのせいです。それが更に極限の生死に関わる状態に至ったとき、逃走闘争本能によって、逃げるか闘うかの行動を起こします。

解っていると言いながら行動出来ないというのは、そこに恐怖があるからなのです。

今私達が生活している社会では、そんな生存の危機に直面するようなことはありません。それをしたからといって命に関わることなどないのです。それでも変化に対する恐怖というのが、無意識の根底にある限り、新たな行動に移るのを阻んでいるのです。
意識を変える、認知を変えるということは、無意識にある恐怖を認識し、実はそこには恐怖など無いということに気付くことなのです。
変わることの恐怖がなくなれば、意識は直ぐに変えられます。むしろ理性が働いて、変わるべき正しい判断が出来るはずです。

このような心理のメカニズムを知る事で、自分自身が囚われている負の感情などを解放させていけば、より自由な生活への取り組みが得られるようになります。

2015年8月7日金曜日

なにがそうさせている ビジネス編5

「意識が変われば、人は変われる」

同じ所に留まるか、勇気を持って未知の領域に踏み込むか。
色々な場面で、こういう選択を迫られる状況はあると思います。
そういった場合、迷わず先に進む道を選んだ方が上手く行くのです。
その状況は、変化を促す為に訪れた、と捉えるべきです。留まることは、変化しようとするエネルギーに逆のバイアスを掛けることを意味します。そうなると、何をやっても上手く行かない、物事が進まない、という状況が生まれます。

一方で、変化の波に乗った時は、どんどん先に進みます。むしろ上手く行くことが向こうからやって来る、という感覚になることでしょう。自分の意識が変化する方にシフトしただけで、自分にとっての状況は好転します。
その際、変化を受け入れていく事が重要です。怖がって躊躇したりすると、その分進み方は停滞します。
今までの延長では、じわじわとマイナスになっていくだけで、そこを打開するには振り幅を大きくしなければなりません。
振り子を思い浮かべると分かりやすいでしょう。
始めは大きく振れていた振り子でも、何もしなければ振り幅は小さくなっていきます。
そして振り子は今にも止まりそうです。止まりそうだからちょっと突く。でも力が弱いからまた止まりそうになる。
現状というのは、これを繰り返している状態です。
振り子を動かし続けるには、常に力を掛けていなければなりません。しかし一見、手を休めても振り子は自然に振れていると思ってしまいます。まあ少し休んでもいいだろう、という慢心が慣れになってしまうと、気付いた時には振り子は止まりそうになっているのです。同じ力を掛けても、前のように大きくは振れてくれません。
再び大きな振り幅を取り戻すには、始めに持ち上げた位の力が必要になります。
つまり、お店を開いた時のようなエネルギーが必要だということです。
実際、物理的にお店を変えるのは難しいことですが、意識的にはそのぐらいの意気込みが必要なんだということです。

変化を受け入れるという事は、意識の転換でもあります。物理的に物事を変えるのは時間や金銭といった労力が必要になります。
しかし、意識を変えるのに、労力はいりません。今までと違った考えを受け入れるだけです。
あなたが見ていた左側の世界から右側の世界を見れば良いだけです。
ところが、ほとんどの人がそれを出来ません。なにがそれを出来なくさせているのでしょう。

この発想の転換を習得出来ている人には、ある共通点があります。それに気付いたあと、それぞれの人が自分の分野で何かを成し遂げていたりします。
その共通点とは、ほとんどの人が極限状態を経験している、ということです。
もちろん、その人にとっての極限状態という意味ですので、皆が命の危機にさらされるような経験をした、というわけではありませんが、人生においてどん底に沈んだ、とか生きる気力を失ったとか、そういう状況から這い上がったという経験者です。

発想の転換の例として、歴史上の話を取り上げてみましょう。
時代は戦国時代1600年。天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦です。

この時、西軍には島津義弘が率いる島津軍1500人が参戦していました。
知っての通り、西軍は惨敗し敗走します。その時島津軍の周りは東軍に取り囲まれてしまいます。
退却するにも逃げようがなくなったのです。
ここで島津軍は歴史に残る行動を起こします。
島津の退き口と呼ばれる、前に向かって敵中突破するという前代未聞の戦法です。
退却というのは後ろに退くことですが、この時後ろ側は東軍の追撃で一杯です。唯一逃げられる道は、東軍本陣の前を突っ切り、その向こう側にある街道へ抜けていくしかなかったのです。
そうはいっても、敵の真正面を突き進もうというのですから、どれだけの犠牲が出るかもわかりません。しかもたった1500人で、万もの大軍の中を突っ切ろうというのです。
島津兵は殿様一人を守る為に、捨て身の戦いをします。死を覚悟して闘う兵に徳川の兵は怖じ気づいたことでしょう。その時点で勝敗は決してますから、そんな手負いの兵に立ち向かって命を落とすのはためらわれたと思います。
そんな島津軍の勢いで、奇跡的に島津義弘は助かります。生き残ったのは数十人であったともいいます。

歴史のIFを言っても仕方がありませんが、その時、普通に退却したら島津軍は全滅、島津義弘も捉えられ斬首となったかもしれません。後ろに退いて、じわじわと戦力を減らされていくなら、今の戦力で一点突破するという決断が、島津藩滅亡の危機を救ったと言えるでしょう。
この後の歴史で島津藩が重要な位置を占めるのは、この決断があったからこそです。徳川としては、腫れ物に触るような意識を植え付けられたことでしょう。それが幕末にまで繋がり、徳川幕府を終結させる立場にまでなっていくというのは、なんとも歴史の不思議さを感じさせられます。

島津義弘は戦上手として知られた人でした。それでも1500人という寡勢で普通に闘っていたらどうなっていたか分かりません。
戦況を見つつ、終盤まで闘わなかったことで、逆に取り残されるという状況が生まれました。
絶体絶命の危機が訪れたことで、今までにない発想も出てきたのでしょう。

つまり、人間はそういう八方塞がりの状況にまでならないと、なかなか意識の転換は出来ないものなのでしょう。
しかし、誰もがあえてそんな危機的状況を望んでそうなった訳ではありません。
結果として意識改革が起こったということです。
それは、どうしようもなくなった、という状況を受け入れたからこそ、全く別の回路が開いたと言えます。
今までの考え方が通用しない、という事実を受け入れた時、これまで見ていた景色とは違う景色もある事に気付きます。

本当は、そんな極限状態にならなくても、気付けばいいだけなんです。
ところが、そういう気付きについての考え方や取り組みかたを教わることがありません。
気付けないのは、こころの仕組みや反応についての知識が足りていないのです。

2015年8月6日木曜日

なにがそうさせている ビジネス編4

「店は人が創っている」

売っているのは人間の魅力である、と言いましたが、これは単純に人間性が良ければ、という話ではありません。
それならば、いい人が集まれば上手くいくじゃないかということになってしまいます。
もちろん、職場の雰囲気が良好になれば、作業効率も生産性も上がることでしょう。

しかし、問題となるのはそこではなく、仕事のシステム上に不具合がないかを洗い出すことから始めなければなりません。つまり、仕事のやり方、慣習や決まり事の中に、見落としているものはないか、ということです。
仕事を円滑に進めるためには、手順が必要です。やみくもに思い付いた事から作業するということはありません。
どこの職場でも朝から決められた手順で仕事を進めていくはずです。

さて、ではその手順を作ったのは誰でしょう。
それは、まぎれもなく人が作ったはずです。
また、その職場にあるルールなども、誰かが作ったものです。
そういう所に、疑問を感じたことはありませんか?
それとも、これは決まりだから何も考えずにそのとおりやっていればいいんだ、と考えますか?
または、ルールにないから、そこはやらなくてもいい、と思っていたりしますか?

この手順やルールをどう作るかで、仕事の流れが変わっていきます。
例えば、「今日から荷物の入った段ポールは通路に置かない」とルールを決めれば、店内の雰囲気は確実に変わります。品出しの途中だから、しばらく置いといてもいいだろう、なんて思ってそのままにしてしまったり。でもそれはお客さんにとっては邪魔なだけです。自分たちの作業がやりやすいからといって、お客さんに不都合を与えるようなことをしていては、売上げには繋がらないのです。

この手順やルールで、本当にお客さんの為になっているか、言い換えればそれをやっていることがお客さんの購買意欲に繋がるものなのかどうか、それを精査する必要があると言えます。
手順やルールというのは、一度作ってしまうと、なかなか変えられません。しかも長年それを継続していると、それが当たり前となって、変えることはいけないことのように思われたりします。
本来、何かの目的をもってそのルールは決められたはずなのに、ルール自体を守ることが主体となって、本来の目的からはズレていることに意識が向かない。そういう例はいくつもあります。

人間は本能的に、同じ事を繰り返す方が楽であるといった意識を持っています。
同じ状態であることは安定している事なので、それは自分にとって心地よい状態であるからです。
しかし、万物は常に変化しています。一瞬たりとも同じ状態であることはないのです。
ほんの些細なことから、大きなことまで、人は変化の中で生きています。本当は日々その変化に対応しながら生きているはずなのに、そこを意識しようとはしません。
ひとつには、変化をすることを恐れる気持ちがあるからです。変わるということは、今までと違うこと、つまり分からないことが起こる、と捉えます。分からないから恐い、しかし変化していくのは必然です。

必要なのは変わる勇気を持つことです。
変化に対応し、変わる事を躊躇しない気持ちと行動力。
その意識を持ったなら、お店は変わります。それは人が変わったからです。

今までやってきたことを止めるというのは、なかなか出来ません。
それが成功体験であれば、余計に難しいことでしょう。
「こうやって上手くいってきたのだから、まだ大丈夫だ」
そんな気持ちに支配され、なにも出来ずに時間がだけが経ってしまうのです。

売上げが低迷して、今の状況を仮にゼロとしたとします。
何もしなければ、ゼロのままです。いや、むしろ変化するのが自然であるなら、マイナスになっていくと言えます。
実は、常に何らかの行動をしていることでゼロベースが保てているのです。

川の上流に向かって船を漕いでいるとイメージしてみてください。
流れが緩やかなときは、今の力で漕いでいても船は上流に向かって進んでいきます。
ところが、流れが急になってきたら、同じ力では前に進めません。そこに留まることでも大変になります。
それでも上流に進むには、どうしたらよいか。
もっと大きな力で船を漕ぐためエンジンを取り付ける、はたまた、一旦岸に向かって進み、陸路を遡る。
いずれにしても、今までのやり方では先に進めないということを自覚しないといけないのです。
このような危機的状況になったときは、特に大きな変化が求められます。
だから余計に変わることが難しいと感じてしまいます。
本当なら、そうなる前の兆候が現れた時点で、次の行動に移っていれば、それほど苦労することなく変化に対応できたはずなのです。
その時に「まあ何とかなるだろう」とか「まだ大丈夫」といった今までの慣習を優先させてしまうと、より困難な決断を迫られる状況になってしまいます。
そしてその決断が出来ずにいると、いずれ疲れ切ってしまい船は流されてしまうことになります。

こういった事は、ビジネスに限ったことではありません。
私生活の中で、似たような状況はいくらでもあるはずです。
そんなときに、自分ははたしてどの様な行動をしているのか、自己確認しなければなりません。

周りの変化に対応し、今までのやり方を恐れずに変えていく力を持つ人になる。
そういう資質を持った人間に、人は魅力を感じるのです。
過去にこだわり、先を見ないような人は誰も支持しません。

見えない未来に目を向け、新しいものを作り出していく、そういう人が作ったお店ならば、お客からも魅力的に映るはずなのです。


2015年8月5日水曜日

なにがそうさせている ビジネス編3

「ものを売らない」としたら何を売るのか。

もちろん、商売ですから、ものを売っているわけですが、販売促進についてディスカッションする中で、どうやったら売れるのかという発想から考えると、値段とか、商品のアピールとか、付加価値の追加とか、ものが主体でのアイデアが出てきます。
もちろん、そこは重要ですが、単に安くすれば売れるとか、宣伝すれば売れるとかでは、今までとそれ程変わるものではないはずです。

ところで、本を売るという事では、他の小売業と決定的に違う部分があります。
それは、本の値段は販売店では決められないということです。
本には値段が印字されています。これは日本全国どこで買ってもその値段です。
本来物販というのは、仕入れ値と販売額の差額によって利益を出します。
例えば、大量注文すればその分単価が安く仕入れられるから、販売価格も1割引で店頭に出せる、という事が出来ます。
しかし、本の場合は、仕入れ価格も販売価格も販売価格維持制度という決まりによって固定されています。勝手に安売りとかは出来ません。

確かに物販は商品買い取りが基本ですから、そのリスクに見合った融通性があるのでしょうが、本の場合は委託販売制度ですので、そのリスク軽減分利益率は低くなるという事です。
しかしそのおかげで、本は北海道であろうが沖縄であろうが、輸送経費を考える事無く価格は固定であり、消費者は平等な価格で本を手に入れることが出来るという訳です。

さて、となると、本の安売りという販売促進は書店では出来ない、というのが大前提になります。更に、物販では他店にないものを仕入れる事で、差別化を図るという手段があります。その店でしか扱ってないもの、というのはお店の個性ともなります。
しかし、書店の場合は他店にあるものは基本的に仕入れることはできます。品揃えを個性的にして差別化を図るという事は出来ますが、売れていない本を大量仕入れしたからといって、それが売れるわけではありません。現実的に利益を出すには、それよりも売れている本を仕入れて、売れるうちに売り切るしかないのです。
結局、どこの書店でも置いてある本は殆ど一緒とならざるを得ないのです。

ここまで考えた時、売っているものも同じ、値段も変わらない、としたら、なぜわざわざその店で買う必要があるのだろうか?
商品自体に全く差はない、としたらお客がそれを買う心理に商品は関係ない。
だったら、ものを売ってるのではない、としたら何を売ってるのだ?

この発想が浮かんでから、売るという見方が一変しました。

商品に注目しないとなると、買う店と買わない店の違いとは何だろう。
お客目線で見たとき、入りやすい店、そうじゃない店は、何が違うのか。
自分がものを買うときの意識には、何があったのだろうか。
もちろん、今までもそういう発想はあったと言えますが、自身の店を見るときにはどうしても売る側の視点の方が優位に立ってしまいがちです。
これはどの店主と話をしているときでも、売るという意識から発想しているなということが伺えます。なかなか自分が一消費者としてそれを買うという感覚にはなり難いようです。

だからこそ、今そこにある「ものは売らない」と決めつけた時に、やっと買う側の視点に立てたという気がしたのです。

小さな店の店主ともなると、店番も含めて店舗に張り付いていることが多くなります。
なかなか外に出かけてゆっくり買いものをするという暇もありません。しかも自分と同じ業種の店でものを買うというのは、なんとなく抵抗があったりします。
本屋なのに、他の本屋で買うというのは、気が引ける訳ですが、これ以降は、あえてそれを実行しました。本に限らず、何かものを買うときには、何が自分に買う気を起こさせたのか、その店の雰囲気や自分の気持ちの変化を観察するようになりました。

難しいのは、良いところを探すということです。感じがいい、とか雰囲気がいい、とかは具体的に何処、と言えない部分にあったりします。明確にならない所は真似しようにも出来ないとなってしまいます。
反面、悪いところというのは直ぐ目につきます。
荷物の箱が通路に置いたままになっていたり、商品の並びが見にくかったり、とりわけ、店員の雰囲気というのは敏感に感じてしまうものです。

誰もが、他人のあら探しというのは得意でしょう。悪いところは直ぐに目についてしまいます。人間の特性と言っても良いでしょう。
お客目線になって気になるところを探していくと、いくらでも出てきます。特に売る側の都合でやっていることなど、お客の立場からは何の得も感じられません。
始めに手を付けなければならないのは、どれだけマイナス印象の要素が自分の店にあるのかに気付くことでした。

お店の都合でやってることに、問題はないか。もしあったとしても、それをどう解消してお客の利便性を高める方向に持って行くか。ものを売る前にやるべき事は沢山あったのです。
売り方を変えることより、自分たちが変わるという事が必要なのです。

まずは、お客が感じるであろう嫌なことを減らしていく。それがあって初めて良さも引き立つということです。そして一番問題となるであろうことは、人間の対応でしょう。
お客に与える印象で最大のものは、その店にいる人間の対応に尽きると思います。
いくら見栄えのよい店舗でも、店員の対応によっては魅力が半減するという場合があることでしょう。そう考えると、お店の魅力とはそこに働く人間の資質によって、大きく左右されるということが言えると思います。

突き詰めていくと、お店で売っているものとは、人の魅力なのではないでしょうか。


2015年8月4日火曜日

なにがそうさせている ビジネス編2

高度経済成長の頃は、ものを作ればどんどん売れた時代でした。
今ではどこの家庭にも当たり前にある、テレビ、冷蔵庫、洗濯機などは、昭和30年代には家電三種の神器と言われて、とにかく所有することがステイタスだったわけです。

この時代、ものを持つことは生活が便利になっていくことでした。また、便利になることは、豊かであるという意識が根付いていきました。
まず、一般家庭にはものが行き渡っていきます。ほぼ誰もが同程度の水準でものを所有できる状況が訪れます。昭和40年代にはテレビのない家の方が珍しくなっていたことでしょう。
次に目指す所は、生活の豊かさです。豊かさは利便性の追求でもあったことで、製品は、より高性能を目指して開発が促されます。
他社より少しでも優れたものを作るのが、売れるもの作りのベースとなります。

所有の欲求と高性能への欲求が、昭和の時代を通じて、ものを買うお客の心理に根ざしていたはずです。他の人より沢山持っている、他の人より良いものを持っている。そこに自分自身の価値も投影していたところがあると思います。
昭和世代の人には、良いものへのこだわりと、ものを持っている事へのこだわりが、こころの奥にあるのではないでしょうか。
ものを捨てられないという気持ちも、こういった心理が働いていると思います。

平成の時代が訪れると、もう一般的に必要とされるものは、どこの家庭にも十分行き渡っていました。しかもどの製品も実に高性能です。製品そのものの出来に優劣を付ける部分は殆どありません。
この頃から、企業は製品そのものの良さを伝えるのではなく、その製品を使うことで得られる満足感を製品価値として謳うようになります。

それまでは、持っていなかったから買う、というのが購買心理でしたが、もう持っているものを買い換える、もしくは持っているのに買い足す、という状況になっていきます。
所有欲と性能価値だけでは、購買意欲の刺激には繋がらなくなったのです。

個人の欲求は、自分の満足感を満たすものの価値と捉えるようになりました。
そうなると、満足感という価値観は人それぞれという事になります。
ここに、価値の多様性が生まれてきました。

全ての分野において、昔のようなビックヒットが生まれないのは、この欲求の多様性によるものだと思います。
平成の年代の人には、あまり所有欲がないと聞きます。生まれた時には全てのものがあったから、特に必要とするものはないという感覚なのでしょう。ものを持つことよりも自分が満足することの方が優先であると考えるようです。

バブル後の不景気からは、よりこの個人の満足度が購買欲求の決め手となっていったように思います。バブルに浮かれて簡単にものを買えるという感覚から突然に緊縮経済になった感じで、買い控えが起こります。しかし本来買う必要のないものまで買っていたのがバブルの時代だったのです。
冷静に考えたら、特に必要なものはない、ということに気付いたのです。
そのため、それまでの販売感覚では商品が売れない状態になりました。

そこからが、どうしたら売れるかと中小企業が頭を悩ませることになったのです。

あるとき、商店街の集まりで、専門家を交えて何グループかに分けて販売促進の取り組みを勉強し、各自発表するという企画がありました。
各商店街で一つのグループを作り、それぞれの取り組みについて、後日プレゼンテーションを行い、成果を競うというものでした。
結局私が、本番でプレゼン発表をするという大役を担うことになるのですが、まずは15人程度でディスカッションが行われました。自分たちのグループではS・W・0・T分析という手法を使い、各店の分析を元に販売対策を考えるという流れに落ち着きました。

S・W・0・T分析とは、各自の強み (Strengths)、弱み (Weaknesses)、機会(Opportunities)、脅威 (Threats) の4つのカテゴリーで要因分析し、経営戦略を練る手法として割とポピュラーなものです。

自分の店に当てはめて分析し、それぞれの要因を考えていると、ある考えが浮かんできました。
「そもそも、ものを売らない、と考えたらどうなんだろう?」
この考えが、ひとつのキーワードして強くこころに残っていくものとなったのです。

2015年8月3日月曜日

なにがそうさせている ビジネス編1

30代に入ってから17年あまり、書店業を営んできました。それまでも、飲食店や引っ越し業のバイト、印刷業、TV局デザイン部勤務など色々な仕事をしてきましたが、書店を通じて培われた情報や知識が、今の自分には大きな収穫となっています。
書店という商売を通じて、世の中のカラクリを勉強してきたように思います。

もちろん、商売というビジネスですから、お金を稼ぐ手段として、ものを売らなければなりません。
書店の場合は本を売るということになります。
商売をする人が常に考えていることは「どうすれば売れるのか」に尽きます。
本当に四六時中、それを考えていたものです。

そもそも、ものが売れるとは、どういうことなのか?
お客がその商品を買うのは、なぜなのか?

そんな疑問が頭の中でいつもぐるぐると回っていました。どこかに答えはないものか。
都合良く、というかおかげさまで、書店という恰好の情報源が目の前にあったので、そういう関係の本を片っ端から目を通していきました。いわゆる、ビジネスにおける成功本の類いや、成功者の自伝、体験談、などがそうです。

1990年に入った頃でしょうか。出版業界も右肩上がりの頃で、景気のいい話の本などがぞくぞく出版されたように思います。
その頃は、メディアで話題になれば直ぐに売れていきました。とにかく話題になっている本を仕入れる事が、儲けるための必要不可欠な業務となります。その為には、あらゆる方向にアンテナを張り、いち早く情報を仕入れなければなりません。
家に帰ったら、TVを見ていても本の話題が出ていないか、電車の中吊り広告に新刊の話題はないか、新聞の書評は何が載ってるか、目に留まるもの全てに注意を払っていました。

TVの影響は絶大で、特にお昼ごろのワイドショーなどには悩まされました。今でもそうでしょうが、料理のレシピ本とか、ダイエットの本とか、中でも健康に関する本などは、放送された直後にお客さんがお店に買いに来ることもありました。
「お昼にTVでやってたんだけど、なんだか身体にいいってことが書いてあるんだって。その本ない?」
そう言われても、こっちはその時間店にいるんだからTVは見てないのに。
しかも、その番組中のひとつのコーナーでちょっと取り上げただけだったりするので、お客さんもよく分かってないから、本のタイトルも出版社も分からない訳です。

ちなみに、本を探す手がかりの一番は、まず発行されている出版社が分かること。次にタイトル、作者かな。

そうは言っても、お客さんで出版社をハッキリ覚えてきてくれるのは稀で、タイトルも作者もうろ覚えで、なんとなくこんな内容で、という場合がほとんどだったりしますね。

しかし、こちらもプロ。とくかく意地でも目当ての本を探し出すのです。
僅かな手がかりから、一冊の本にたどり着く。まるで探偵のような・・・言い過ぎ?

先のTVでやってた、という話から「何チャンネルの何時からの番組でした?」と聞き込みを開始。新聞やTVガイドの番組欄をチェックして、その番組を見つけたら、TV局に電話します。
その番組名を伝えて、番組担当の人に繋いでもらい、コーナー中の説明をして、さらに受け持ちのディレクターさんに変わってもらって、ようやく紹介した本にたどり着きます。
それから、出版社に電話をして確認すると、まだ発売前だったりすることもしばしば。

話がそれましたが、そんなふうに、TVやラジオ、新聞など、メディアの影響力というのはとても大きなもので、何かを売る為には、メディアにいかに載るかが勝負だった時代でした。

しかし一方で、話題になれば売れるというのなら、本の中身は関係ないのか?という疑問も浮かびます。
同じような内容の本は、いくらでもあるわけですが、内容の善し悪しではなく、メディアに載ったかどうかで、売れ行きは雲泥の差になってしまったりするのです。

書店に新刊が入荷した時点で、まだお客さんの目に触れない本を手にします。そこでこの本は売れるかどうかを見きわめるのが、朝一番の仕事になります。長年本を見ていると、本の装丁、タイトルを見た時点でなんとなく売れそうかどうかの勘が働いてきます。
そういう中で、これはなかなかいい本だ、と思ってもこのままでは多分売れないだろうな。というものも出てきます。

良い本だから売れる。この図式が成り立たないというのを実感してきました。
ただ、間違ってはならないのは、良い本でなければ、売れる事も無い。という前提があってのことです。
粗悪なものは、結果としてやはり売れないのです。

面白いことに、製造業者と販売業者では、売れるという捉え方に違いがあります。
中小企業者の集まりで10年ほど勉強会をしてきました。その中には物販販売、サービス業、飲食業、製造業という各種の店主が揃っていたので、それぞれの商売に対する捉え方の違いがよく表れていて、大変勉強になりました。
製造業、いわゆる職人気質の人は「良いものを作れば売れる」というのが基本的な意識にありました。
販売業の人は「売れるものが良いもの」という意識がありました。

この構図は、製造販売の大きな会社に見られる、製造部門と営業部門の意識の違いと同じです。
製造は「良いものを作っているんだから、売れない営業部が悪い」
営業は「お客が買わないのは、ニーズに合ってないからだから製造を見直せ」
なんだかTVドラマなどで、よく見かける気がします。

しかしこれ、どちらも間違っているわけではありません。
実は、売れる要素は他のところにあるのです。

お客がものを買う心理とはいったいどこにあるのか?
これを知ることが、商売をする上で重要なことだと思い至ったのです。

ここから人の心理に分け入っていく、長い道のりが始まりました。



2015年8月1日土曜日

こころの健康と臨床 まとめとして

こころの健康と臨床については、ひとまずここで一区切りとします。
ここ半年間、大学の講義で学習してきた事のおさらいといった形で纏めてみましたが、専門的にはもっと幅広く、更に奥深い知識が必要になることでしょう。
ただ、これまでの解説は、精神障害とはどういうものかを知る導入部として捉えていただけたらと思います。
解説した項目も、一般的に体験する場合がありそうな症例から選出しています。
大学の講義を受けるまだ若い学生達が、周りの友人知人や、自分の中にもある障害の要素に気付き、適切な対応をとれるような知識を得ることが、彼らの今後の社会生活においては重要なことと思います。
学生に限らず、一般社会に暮らす多くの人が、正しい知識を得ることで、円滑な社会生活をおくれるというのが、本来目指すところではないでしょうか。

学習していく中で、ここは広く認知していかなければならないというポイントがいくつかありました。
まず、精神障害に対する認識です。
障害という言い方が、イメージとして病気を連想させてしまうことで、病人=異質な存在という感じを持たれてしまってはいないでしょうか?
精神障害を解説するとき、障害というのは、通常の日常生活において、明らかに何らかの支障が起こっている場合を指す、ということを何度も言われました。

私達は他人を認識するとき、その人の性格や特質をもって、パーソナリティを決めています。
本来は誰もが持っている性質において、特定の性格が他の人より目立って現れる部分を捉えて、その人の個性であるという判断をしているはずです。
明るい人、暗い人、怒りやすい人、几帳面な人、臆病な人、集中力のない人、怠け者、など。
こういう人は自分の周りにも、当たり前に居るはずです。
でも、この性格が過剰になっていったら、それぞれの性格に当てはまる障害の症状として表れる事になります。
症状が頻繁に現れ、まともな生活が出来ないとなったら、障害という判断が下されます。

つまり、精神的バランスが崩れれば、誰でも精神障害になり得るということを自覚することです。

精神障害者=異常者 という事ではありません。
自分とは違うものを異質に捉える気持ち(分からないから恐怖と感じる)から異常な人というレッテルを貼ってしまいがちです。しかし、本当は誰にでもその可能性があると知っていれば、そうなる前の対応にも違いが出てくるはずです。

精神障害は特別なことではない。という認識が社会的にもっと広まるべきだと思います。

もうひとつ、心理教育の必要性です。
認知心理療法では、疾患者の囚われている考え方に、別の見方もあるんじゃないの、という形でアプローチをしていきます。その人個人の物事に対する考え方は、それまで生きて来た中で培われてきたものですが、そこに誤ったものの見方や、偏見、異常なこだわりなど、自分でも気付かないうちに身につけていることもあります。
子どもの頃の両親から受けた影響であったり、その時の周囲の人の影響であったり、自分が望むものとは違う環境による体験で、無意識のうちに構築された考え方があったりもします。
自分自身のこころを知ることで、無意識に囚われていた考えを解放することができます。
それによって、悩まされていた症状も緩和されていきます。

自分のこころの中を観察していくのは、なかなか困難なものです。どうしたらそれが出来るのか、誰も教えてはくれませんでした。
こころの反応の仕方、こころと感情の繋がり、思考のもつ癖、といったような心理に関わる知識を正しく教わる機会もありませんでした。
身体の構造や働きに関する知識や肉体強化の運動など、学校教育では習ってきたことですが、心理の構造や働きについて教わった記憶がありません。

現在、多くの人が精神的疾患に悩まされています。
もっと早期に心理教育を受ける機会があったなら、障害にまで至らずに済んだ人もいることでしょう。
医学の発展で、身体についての病気や治療についての知識は広く一般的に浸透してきたと思います。
しかし、ストレスから病気が発症するという事も確認されてきました。
目に見える部分に注目してきた事による成果は、もちろん賞賛すべきことですが、これからは目に見えない部分に焦点を当てていかなければならないと思います。

社会的にも、日本はずいぶん豊かになったと思います。
戦後の食うや食わずを経験した人達は、何もないところから、物質的な豊かさを求めて戦後復興を推し進めてきたことでしょう。生存へのエネルギーは、いろいろなものを満たすことに向けられたと思います。
そして今は、ほぼ物質的に満たされた状況だと言えるでしょう。

人間は欲求の生き物です。欲求を満たすために生きているとも言えます。
物質的欲求が満たされた今、人々の欲求は何処に向かっているのでしょうか?
それが、精神的な問題の増加に繋がっているのではないかと思えるのです。

東日本大震災の時、被災者は衣食住を奪われ、生きることの極限を味わいました。しかし、今の日本はあれだけ多くの被災者を助けるだけの物資が直ぐに集まるのです。これは本当にすごいことです。
住むところは直ぐにはどうにもなりませんが、食べるもの、着るものに関しては、溢れるばかりの物資がぞくぞくと被災地に届けられました。
被災し、避難した人には、食べ物がなくて亡くなったという方はいません。

残念なのはその後、仮設住宅も整い、ひとまず安心して暮らせる状態になったとき、我が身に起こった状況に耐えられず自ら命を絶った人もいるということです。

生活が満たされることが、生きる全てではない、という事を痛感させられます。
あの震災から生き残った事実を、人はそれぞれの捉え方で受け止めています。
何か正しいかは言えるものではありませんが、苦しみや悲しみに目を向けるより、希望に目を向けることが、生きていることの喜びを得られるのだろうと思います。


2015年7月31日金曜日

こころの健康と臨床 統合失調症

精神障害の中でも、なかなかその症状を理解しにくいのが統合失調症です。
その症状が本人にしか分からないものだったりするので、周りの人が想像出来ないからと言われています。

具体的な症状は
  • 妄想
  • 幻覚、幻聴(幻声)
  • 解体した会話
  • 支離滅裂な行動、緊張病性行動
  • 感情の平板化、思考の貧困、意欲の欠如
といった状態に悩まされます。

統合失調症は、主に次のように類型されます。
  • 妄想型:妄想や幻覚(特に幻聴)を主な症状とする。20代後半以降に発症することが多い。
  • 解体型(破瓜型):解体した会話、行動、周囲に対する無関心、感情の起伏の乏しさが主な症状。思春期に緩やかに発症。
  • 緊張型:極度の興奮、他動、昏迷を繰り返す。同じ姿勢を取り続ける、他人からの言動を意味なく繰り返す。人からされた姿勢を保ち続ける(カタレプシー)などが主な症状。20歳前後に急性に発症することが多い。
発症は思春期から青年期が殆どで、早期発見し治療を受けることが望まれます。
治療期間が短いほど、回復の予後が良いとされます。
症状の繰り返しが長引くと、感情の麻痺や意欲減退、思考弛緩などといった機能低下を繰り返し、徐々に機能がレベルダウンしていくことが検証されています。それによって他の障害も併発するということも危惧されます。

1990 年代に米国で開発され,2001 年より日本に導入されたバーチャルハルシネーション(virtual hallucination program:幻覚疑似体験装置(VH)というものがあり、患者の症状をリアルに疑似体験できるものがあります。
当事者に関わる周りの人が、それを体験し、どのような症状に悩まされているのかを理解することで、治療の助けとなります。
周りの人間がどれだけサポートしてあげられるかが、重要になります。

つい最近、今年の5月に交通事故で亡くなった、アメリカの数学者のジョン・ナッシュさんは、この統合失調症に悩まされながらも「ゲーム理論」を構築発展させノーベル経済学賞を受賞しました。
彼の半生が2001年に映画「ビューティフル・マインド」として公開されました。
映画では、障害者から見えている現実、という形で映像表現されているので、当人の意識を追体験出来るしくみになっています。見ていると、どれが実際の現象なのか、どこからが幻覚なのかが、分からなくなる時があります。しかし、実際は幻覚であっても本人にとっては現実と区別がつかないわけです。
映画では幻想の一部(人物)が現実的に整合性が付かないことに気付き(年を取らない)区別をしていく、というように描かれていますが、当事者でなければ、なかなか分からない感覚かもしれません。
それでも、障害を理解するためには、この映画も役立つことと思います。

幻聴(幻声)は、不安、孤立、過労、不眠の4条件によって引き起こされます。
この4条件が重なると、人は幻声を体験するようです。
過酷な条件が重なってしまうと、誰もが幻聴体験をする可能性はある、ということです。
例えば雪山で遭難した、などの体験をした人が、「天の声が聞こえた」といった証言をする話を聞きます。
それなどは、まさにこの4条件が当てはまる状態であったとも言えます。

幻声については、自分の考えに由来があるとされています。
次の3つのパターンがあります。
多面的な思考の一側面:人は同時に色々な事を考えています。一つの事を多方面から分析することもします。
自己否定的思考:自分はダメだ、いやそんなことはない、というような問答は経験あるはずです。
他者の言動の想像:あの人はこう思っているに違いないという考えが、現実の言葉として捉えます。

誰もが、普段過ごしている場面で考えていることですよね。
洋服を買いにいって選んでいるとき、こころの中ではいろいろと会話がされていませんか。
「あ、これいい。欲しな」「ちょっとまて、結構な値段だぞ」「これを着たら褒めてもらえるかな」「ん〜ちょっと派手すぎない?」
「今月ピンチなのに、そんな高いの買っていいのか」「ここんとこ忙しくて大変だったから、自分へのご褒美だ」
こんんが考えが次々と浮かんでいたりするはずです。
これが全部独立した会話として聞こえてきたら、うるさくて仕方ありません。
さらには、店員の声として「ちょっとあの人、似合わない服買おうとしてる〜」「ホントに買う気あるのかしら」「いつまで選んでるの、早く決めてよね」
自分がそう思い込んでる考えが、あたかも本当に話しているように聞こえてくるなんて、これは本人にしてみたら恐怖です。

普段から、不安や孤立といった状態にいると、こういったネガティブな考えに支配されてしまいます。本人が思っているほど、周りの人はなんとも思っていないという事実を認知できていれば、マイナス感情に囚われずにいられます。
日常の中でのコミュニケーションがうまくいっていないと、こういった障害に発展してしまう可能性があることを認識する必要があるでしょう。
自分も含め、周りの人の中にも、どこかコミュニケーションに問題がありそうな気配があったなら、早期に解消していくことが、このような精神障害を防ぐ手立てだと思います。
そして、あまりネガティブな考えに囚われないようにすることが、こころの健康を得るための秘訣です。


2015年7月30日木曜日

こころの健康と臨床 摂食障害

さて、今回は女性にとって避けて通れない話になりそうです。
そうです、ダイエットとは切り離せない問題、摂食障害についてです。

現代はダイエットブームというか、人格否定にまでなりかねないほど、体重を問題視する傾向がありますね。
女性に限らず、男性でもメタボとかいって太っていると、自己管理が出来ないやつ=仕事も出来ない、みたいに思われている場合もあるんじゃないでしょうか。
見た目だけの問題ではなく、太りすぎ、痩せすぎは、身体に影響を及ぼします。
メタボリックシンドロームなどでは、命に危険性のある疾患に繋がる恐れが増大します。また過度な食事制限を重ねると、ホルモンバランスの変調、栄養不足などで、これも病気を引き起こす要因となります。
どちらにしても、行きすぎると病気が待っているということを十分理解しましょう。

摂食障害には
    神経性食意不振症:AN(Anorexia Nervosa)以下ANとします。
    神経性過食症:BN(Blimia Nervosa) 以下BNとします。
と定義されています。

ANについては、体重増加の拒否、体重が増える事への恐怖感、体重・体型に対する過剰な自己評価、無月経など。
サプタイプとして、過食/排出型という、むちゃ食いをして吐く、とか薬を使って強制排出を繰り返すとかの行動をするケースもあります。食べたら、吐けばいいんだという誤った認識に囚われて、指に吐きダコが出来る程になってしまう。
最初は、「これならイケるじゃん」みたいに思うのかもしれませんが、正常な行為ではないので、身体に影響が無いわけはありません。
肉体というのは、習慣化された行動に適応しようとしていきます。身体を鍛えるのも、肉体に負荷を掛けた分だけ慣れていくことで強靱になっていくわけです。ただし、急激に負荷をかけると壊れてしまいます。
過度な嘔吐や排泄行為を習慣化していくと、肉体はだんだん摂取する機能が低下していきます。せっかく食べたものから、栄養を吸収することが出来なくなってしまいます。それは本来生存するために必要な栄養まで摂取出来なくなる恐れがあるということです。
つまり、太らないのではなく、太れない(肉体を維持できない=機能破壊)身体になってしまいます。
過度なダイエットの危険性はここにあります。
身体が受け付けなくなってしまった時、今度は食べようとしても吐いてしまう。もう自分の意思ではどうにも出来なくなってしまうのです。
実はこのANについては、精神障害の中でも最も致死率が高いと言われています。
食事を摂ることは、生きる上で欠かせない行為です。生きる為のエネルギーは食物からしか摂ることは出来ません。
その命に関わる行為を抑制していく事は、死に向かっていることと同じなのです。

ではBNの方(過食)はどうなのかというと。
何らかのストレスによるむちゃ食いがエスカレートする。明らかに食べ過ぎ。
食べることを制御できない、自分でコントロール出来ない感じがある。
むちゃ食いした分を嘔吐、排泄行為で補おうとする。
過食の後に極端に絶食したり、過度な運動をしようとうする。
こういった行為に及んで、自分ではどうしようも出来ない状態になります。
BNの方が治療予後が良い傾向にはありますが、これがANに発展してしまう場合もあるので油断はできません。
例えば、いっぱい食べても太らないね〜、などと言われると嬉しくなって、嘔吐行為を正当化して繰り返しているうちにANの症状になってしまう、ということも考えられます。

過食については、食=快楽という肉体の基本的な性質に根ざした部分もあります。
嫌なことがあったから食べる。食べるのは快楽だから心地よいわけです。負のストレスが掛かると、その分快楽を得ようとして食に走る。他の事でストレス発散が出来ていれば、そうはならないかもしれないのです。

ANもBNも一般的にダイエットから発展して障害に至る場合が多くあります。
どちらも、自己の体重やスタイルに対する過剰な認知によるものです。
TVやマスコミのメディアや世間などが、痩せていなければダメというような認識を与えてしまっていますが、そのような価値観に振り回されて、身体を壊すようなことの何が正しいのでしょう。病気になった人を羨むようは人はいないはずです。
体重にしても、人それぞれの肉体に合った状態が正しいわけです。
全てにおいてバランスの整った肉体というのが、一番美しいというのが正しい価値観ではないかと思いますね。

しかしながら、ダイエットという甘美な誘惑には誰もが惑わされるようです。ダイエット産業などとも言われるわけですから、そこには相当な利益関与があることでしょう。経済効果としては無視できない事ではあります。
だからといって、過度なダイエットに踊らされるのはどうなんでしょうね。
急激なダイエットは、ほぼ間違いなくリバウンドを起こします。
それは肉体がそうなっているからです。
急に食べるのを制限すると、確かにカロリー摂取はできなくなるので、体重は落ちます。さらに運動をすることで、体脂肪の燃焼等で引き締まるのは当然です。
急に栄養摂取量が減ると、肉体の方はびっくりして、これは栄養補給を急がなくてはならない、と脳が指令を出します。
ダイエット期間が終了して、また普通の食事に戻ったときに、脳はこの機会を逃してはなるものかと、少ない食料からでも最大限の栄養補給をしようと頑張るわけです。
そして、また訪れるかもしれない飢餓状態に備えて、せっせと栄養を溜め込もうと働きます。
ダイエットが終わった後の身体は、備蓄食料を吐きだして、すっからかんになった倉庫の状態なので、もう食料が入ってくるのを手ぐすね引いて待ち構えているようなものです。
「一時はどうなるかと思ったけれど、不良在庫まで吐き出せたよ、良かった良かった。これでまたいくらでも入るぞ」
なんて声が身体から聞こえてきそうです。
本当は、この不良在庫を入れていた倉庫を処分するのがダイエットでしょう。でも、倉庫を自体を処分するのは、それなりに時間もかかるという言うことではないでしょうか?
お手軽なものには、必ず裏があるって事を、人生の教訓として肝に銘じておきたいところです。

2015年7月29日水曜日

こころの健康と臨床 パーソナリティ障害 -境界性パーソナリティ障害-

最近インターネット上で飛び交うネット用語に「メンヘラ」という言葉があります。
こころに問題を持った人という意味合いで使われているようです。
どうやら「メンタルヘルス」が縮んで「メンヘル」となり、そのような人という意味で-erが付いて「メンへラー」→「メンヘラ」となったらしい、とあります。

とは言え、これはかなり曖昧な捉え方で、この言葉自体がひとつの意味を持って一人歩きしているところもあるので、一概にメンヘラ=精神障害者という括りにするのは危険に思います。
あくまで、ネット用語という特殊な使い方の中での言葉として捉えておきましょう。

ただ、どうやらそういう症状を指している障害としてはパーソナリティ障害が挙げられると思います。
パーソナリティ障害は、診断・統計マニュアルDSM-Ⅳ-TRによる分類では、A群、B群、C群と三つの症状に分けられています。
  • A群:風変わりな考え方や行動が特徴的。妄想性、シゾイド(統合失調症質)、統合失調型など。
  • B群:感情が激しく不安定なタイプ。反社会的、境界性、演技性、自己愛性など。
  • C群:不安感が強いタイプ。回避性、依存性、強迫性など。
どの症状においても、なんとなくそれっぽい気質というのは、誰でも持っているものです。
ちょっとそういう性格もあるよね、ぐらいの個性として捉えるのが良いと思います。

この中では、B群の境界性パーソナリティ障害を取り上げてみましょう。
この境界性パーソナリティ障害は、対人関係、自己像、感情の不安定性と衝動性が顕著に表れます。

    見捨てられる感:誰も私のことを見てくれない。
    他者への過度な依存感:私の事を愛してくれている。逆にどうして愛してくれないの。
    衝動的な自傷行為:むちゃ食い、浪費、無謀な行動。
    自殺行為:脅し、リストカット。
    気持ちが不安定:情緒不安定、強い不快感。
    慢性的な空虚感:何もやる気が起きない。どうでもいい感。
    激しい怒り、制御不能の怒り:急に癇癪を起こす、けんか。
    妄想、解離など
対人関係において障害となる場合が多いので、周囲の人が巻き込まれる可能性があります。
特に19歳〜34歳の間での出現率が高く、女性は男性の2〜4倍の割合という統計もあります。
若いうちの発症では、周りの友人なども対応する知識が乏しいという場合もあるでしょう。
お互いが辛い思いにならないよう、正しい知識を得ることは必要だと思います。

障害となるケースには基本となる3テーマが存在します。
(1)自分に自信が持てない
(2)生活の方向性が十分に定まっていない
(3)支えになる仲間が少ない
こう見てみると、なるほど若い人に起こりうる要素だと感じますね。
治療に際しては、基本的には自助努力が必要ですが、環境となる家族や友人の協力が重要になります。
自分に自信が持てない、という思いが大きいので、自分に対しての否定的な認識を改めるよう促していくことが必要です。
自信というのは、他人から与えられるものではなく、自分で獲得するものです。
自信を持てるような勇気づけをしてあげられるよう、手助けをするのが周囲の人の役目です。
無気力や無関心などの症状でうつ病とも捉えられがちですが、基本の3テーマがうつとは異なるので、薬だけでは改善しにくいのが特徴です。

発症のケースを追ってみましょう。

他者からの注意を過剰に捉え傷つく。自信喪失。
もしくは注意を非難と捉えて、ショックを受ける。
これによって、自己の全否定や侮辱された感が増大。(普通なら我慢できるレベル)

自己否定が過剰だと、自傷的行動、自傷行為に及ぶ。
侮辱感、見捨てられ感が過剰だと逆に反発して、切れる、八つ当たり、けんかなどにエスカレート。

それによって周囲との軋轢が生まれたり、反発や敬遠され孤立することとなり、後悔する。
そんな自分に自己嫌悪し、落ち込み、不安感やむなしさがつのる。

そして、悪循環に陥っていくことによって、障害に発展していきます。

特に怒りが高じて暴力的行動が引き起こされると、周囲との軋轢もより修復が困難な状況を作ってしまいます。
怒りの感情は瞬間的に暴走する状態を作ってしまうので、そうなる前にセルフモニタリングが出来るように意識を気持ちに向けているよう心がけると良いでしょう。
怒りとは、自分に及ぶ危険に対してどう対処していいか分からないという恐怖の裏返しです。
怒られているのが恐いから怒る、傷つくのが恐いから怒り返す、というような、自分の中にある恐怖を自分自身が理解しないうちに感情に引きずられて興奮状態になるのです。
興奮すると冷静な判断が出来なくなり、訳が分からないから更に暴走する。
どうですか、身に覚えはありませんか?

怒りを制御するには、怒りの前兆が芽生えた時点で、何がそうさせているかを理解することです。怒りの正体が分かれば怒ることはありません。
なんだか分からないもの、というのは恐怖に繋がります。そこで逃走闘争本能が働くと、逃げられる場合はそれでいいですが、逃げられないとなったら闘うモードに入ります。それが怒りですね。

怒りとは恐怖の表れである。

そう捉えていれば、周りで怒っている人を見ても、「あの人は何を恐れているのだろうか」と観察しているうちに、怒っていることも気にならなくなってきます。
これを習得しておくと、だいぶ楽な気持ちで居られるので、おすすめです。

2015年7月28日火曜日

こころの健康と臨床 不安障害 −強迫性障害−

強迫性障害とはどういうものでしょう。
まず、定義される二つの症状として、強迫観念と脅迫行為があります。
  • 脅迫観念:侵入的反復的に体験される思考、衝動、心像
  • 脅迫行為:脅迫観念に伴う不安や苦痛などを和らげる為に行う行動、心の中の行為
ちょっと解りにくいかもしれませんが、本人はそれが過剰であることも認識している場合があります。

誰にでもよくあることで、簡単な例をあげてみましょう。
今から用事があって出かける事になりました。
外に出てしばらく歩いたら、ふと玄関にカギを掛けたかどうか気になりました。
なんだか自信がもてなくなって、引き返して確かめます。
もう一度カギをかけたのを確認して、歩き始めます。
ここまでは、だれもが経験したことはありませんか?

しかし、あれ、本当に大丈夫か?カギを逆に開ける方に回したままにしたんじゃないか?
そういう思いが沸いてきて不安になり、また戻って確かめます。
そして確認したにも関わらず、もし空いてたらどうしよう、泥棒に入られたらどうしよう、と不安がつのります。
結局また戻って確認する、という繰り返しになって、出かけられなくなってしまいます。
ここまで来ると、確実に生活に影響が及び、障害となるでしょう。

最初の「あれ、カギ閉めたっけ?」とか「窓閉めたかな?、ガスコンロのスイッチ切ったかな?」というのは侵入思考といって、普通に思う事として経験します。しかし、そこから泥棒に入られるかもしれない、ガス爆発するかもしれない、という不安が増大して、どうしようもなくなるという状態になってしまうのです。
でも、現実的に玄関を閉め忘れたからといって、必ず泥棒に入られるということは、まずあり得ないでしょう。
明らかに異常な不安感や我慢できない思いというのが脅迫観念です。
そして、それを解消、または苦痛の緩和の為に、カギの確認を必ず5回やる、とかガス器具の元栓は全部閉めるという行動を取るというのが脅迫行為となります。

脅迫観念で一番多いのが、汚染に対してです。潔癖症という人はけっこういますよね。
次が病的疑念です。これ、バイ菌で自分が汚れて、病気になってしまうんじゃないか、というように汚染とセットとも言えます。
脅迫行為では、確認が一番、次が手洗いです。
前述のカギの確認のように、何回も確認しないと気が済まない。手洗いは汚染に通じますね。
また、自分だけじゃなく捲き込み型として、質問攻めにしてしまう、とか強制的にやらされるような場合もあります。

脅迫観念が表れると、それに対する脅迫行為をすることで、安心感を得ようとします。
パニック障害でも触れましたが、不安感というのは一時的なもので、時間が経てば自然に収まります。
しかし脅迫行為を行って安心感を得ようとすると、それをしないと不安であるという悪循環に陥ります。
その脅迫行為は過剰な行為であって、する必要はないのです。
それをしなくても大丈夫という体験を自ら進んで行うことが、障害の緩和につながります。

普通の人でも侵入思考であるところのネガティブな考えは当たり前に起こります。
ストーブを消し忘れて火事になるんじゃないか、とか運転中に赤信号でアクセル踏むんじゃないだろうか、とかちょっと危険な考えがふっと浮かぶようなことは誰でもあります。
どうやら、そう思った自分自身が本当にそれをやってしまうんじゃないか、とか本当にそうなってしまう、という思い込みが強い人が、強迫性障害に向かいやすいかもしれません。
物事をハッキリさせないと気が済まないとか、100か0で物事を考えてしまうようなタイプの人と言えます。
また、女性は、妊娠、出産で発症する場合があるといいます。これは守るものが出来たことでホルモンバランスが崩れたりすることが原因とも言われています。

考え方の中に、こうでなければならない、そうあるべき、というような誤った信念や強固なこだわりを持っていたりすることで、それにそぐわないものに対しての不安が過剰になっていきます。囚われている考えが強固であればあるほど、相反する不安感も増していくのだと思います。
自分自身の中にある、そのような部分を冷静に分析して、客観的な判断を持てるようになることが、思考の悪循環から抜け出ることになります。自分の思考の流れを書き出してセルフモニタリングをするという方法もあります。

一般的に、白黒つけたがるという気持ちがあるのは分かります。
でも、こっちが正しい、そっちが間違っているというのは、概して主観的なもので、見方が変わればどちらとも言えないというものだったりしませんか。白黒つけることが正しいというわけでもないはずです。
世の中、どちらとも言えない中で成り立っているもので、正しいも間違いもないという認識でいるほうが、だいぶ生きやすいんじゃないかと思いますね。

2015年7月27日月曜日

こころの健康と臨床 不安障害 −社会不安障害−

社会不安障害、あるいは社交不安障害とは、あまり聞き慣れないかもしれません。
これは主に対人不安に対しての障害です。
他者との関わりの中で発症するものなので社交不安障害という言った方がしっくりくるかもしれません。

具体的に対人不安とは、
”他者からの評価に直面したり、もしくはそれを予想したりすることから生じる不安状態、あるいは、他者からの詮索や注目、その存在によって引き起こされる動揺や混乱”
この状態の強度、頻度が強くなって生活に支障を来す状態のことを言います。

社会不安障害という言い方をすると大げさに聞こえるかもしれませんが、コミュニケーションの問題と捉えると、けっこうありがちな場面を思い付くのではないでしょうか。
他人の目が気になるようになったり、恐い先輩が居たりすることで、びくびくするとか、おどおどするとか。
人前で発表するなんて時に失敗してダメなやつと思われたらどうしよう。
子どもの頃は平気だったのに、思春期になってからだんだんとそんな意識が出てくるものです。それ自体は成長過程においては当たり前に起こることなのですが、その不安感が過剰になってしまったことによる疾患と言えます。

強度のあがり症、特定の人に相対すると緊張で硬直してしまう、または人と接するような場面全てにおいて恐怖を感じてしまうという例が挙げられます。
また、そういった不安感がつのることで、身体的な症状(動悸、息切れ、発汗、めまい)などが引き起こされて、パニック発作も併発するという場合もあります。
他にも、不安感を抑えようとして、アルコール依存に陥るというケースも通常の2倍以上の確率で確認されています。

精神障害全般にいえることですが、この社会不安障害が起こる原因というのもはっきりと特定されてはいないのが現状です。こころの問題は複雑な要因が相互に影響しているものなので、限定された原因というのは導き出すのは困難であるといえます。
今のところ、学習経験、遺伝的要因、家庭環境が互いに関連した中で引き起こされる、というのが社会不安障害の原因にあるのではないかと考えられています。

社会不安障害の治療法として薬物療法は有効です、また不安や恐怖に対してのカウンセリングを併用していくことが、治療効果の持続につながります。

この社会不安障害の要素としては、日常の中にもよく見られるものがあると思います。

「ちょっと自意識過剰なんじゃない」とか
「そんなの被害妄想だよ」とか
「誰もあんたの事なんて見てないよ」
「みんな気にしてないんだから大丈夫だよ」

こんな会話、けっこう聞きませんか?
でも、本人にとっては、どう思われてるか不安でしょうがないのです。
周りのみんなには、「こいつダメだな」と思われているんじゃないか。
励まされても、「にこにこしてるけど、心の中では私のことを笑ってるんじゃないの」とか、相手が考えていると思い込んでしまう。これを投影と言います。

自分の中でネガティブなイメージを想定して、あたかも周りの人もそう思っているに違いない、と思い込みます。そう思われている自分に自信を無くして、卑屈になり、またそれを見た周りの人のネガティブな評価をイメージしてさらに自信を無くすというスパイラルに陥ります。

問題は、最初のネガティブなイメージは自分自身が勝手に作り出したものである、という認識の欠如にあります。自分が思うほど周りの人は何とも思ってない、というのが事実なのですが、なぜかそう思えない。

これには、日本の社会的集団意識が影響している部分もあると思います。
他人に何か言われるのが恐い。人と違うことをしてはいけない。目立ってはいけない。こういった他者と自分という関係性に必要以上に敏感であると思います。
最近はとにかく「空気を読め」という言い方でばっさり切り捨てられている感じがありますが、そういうものに縛られている自体がおかしな事だと、誰も言い出しませんね。
こういうこと言うと、「空気を読んでない」と非難されちゃうのかな?
「空気を読むとは、あうんの呼吸によりお互いの調和をとり、和を持って尊しとなす、という古来より受け継がれる日本人の美徳なのである」という集団的自衛権を発動されちゃうかも。

逆にアメリカとかなら、自分の意見を言えないやつは評価されない、とか個性を発揮出来ない人間はイケてないとか言われると思います。国が違えばまったく逆の捉え方をされるわけです。

自分自身がその状況をどう捉えているのか、特に自己否定に繋がる要因はどこにあるのかを正しく認識することが必要です。案外とその部分は自分でも気付かない無意識な反応をしている場合があります。
例えば、人前に出て発表するのが苦手だとします。
実は小さい頃に学芸会で失敗して笑われたことがあったのですが、自分ではすっかり忘れていたとか。
何か失敗すると、いつもすごい剣幕で親に怒られていたという事があって、上司の前では必要以上に緊張してしまう、とか、自分の過ごしたきた環境の中で、何かしらの誘発させる原因があったります。
そういう外部からの影響によって、自分自身が受け止めたものを、あたかもそうで有るべきというような思い込みで自動的な判断を下しています。
これは、誰でも持っているもので、実はそうやって気付かず自動思考をしてしまっている事が日々の中にいくつもあるはずです。感情が揺さぶられるような出来事があったとき、一歩引いて自分を見つめ、なぜそういう気持ちが起こったのかに注目しましょう。そこで囚われているものに気付ければ、より穏やかに過ごせる自分を得ることができるようになるでしょう。

2015年7月26日日曜日

こころの健康と臨床 不安障害 -パニック障害-

不安障害には幾つかの分類があります。
  • パニック障害
  • 社会不安障害
  • 強迫性障害  
    他にも全般性不安障害、恐怖症性不安障害、外傷後ストレス障害など
まずはパニック障害について。

このパニック障害というのも割と聞いたことがあるのではないかと思います。
電車に乗れない、とか人混みに行けないなどの症状で苦しんでいる人です。
かなりポピュラーな病気であり、女性は男性の2倍ぐらいの発症率があるといわれています。軽度なものを経験したことがある人は多いと思いますが、パニックになる原因については、今のところ生理的に特定される原因は不明のようです。
実際の症状としては、
  • 心臓がドキドキする
  • 汗をかく
  • 身体や手足の震え
  • 呼吸が早くなる、息苦しい
  • 息がつまる
  • 吐き気
  • めまい、ふらつき、気が遠くなる感じ
突然、こういった身体の反応が現れることで、現実でない感じや、身体のコントロールが効かなくなって、死んでしまうのではないかという恐怖に襲われる、というような状態になってしまいます。

まず、要因となる出来事があって(電車に乗る)
心身の変化が起こる(めまいや動悸、息苦しさ)
このまま倒れてしまうのではないかという恐怖(破局的認知)
その場から逃げ出す(回避行動)
また電車に乗ると、発作が起こるのではないか?(予期不安の形成)

こういった心理で、その後電車に乗れなくなってしまう、といった具合になり日常生活に支障を来すこととなります。
実は、この発作的な身体状況については、一時的なもので、時間が経てば収まってくるものなのです。パニック発作によって命が脅かされるようなことはありません。冷静にしていれば、やがて発作はおさまってきます。
問題なのは、その状況になったときの破局的認知にあります。
身体の状態に過剰に不安感を募らせる結果、それがまた興奮状態を引き起こし、症状が持続してしまいます。火に油を注ぐような状態ですね。
まず、発作は必ずおさまるという認識をしっかり持って、過度に身体に現れた症状を意識しないように冷静さを保つことが、パニックにならない秘訣です。

身体に起こった症状を冷静に捉えて、慣れていくこと。発作が起きたら、ゆっくりと腹式呼吸をして、慌てずに落ち着くのを待つなど、対処法を身につけましょう。
ガムを噛むとか、音楽を聴くとか、自分に合ったいろいろ落ち着ける行動などを探してみるのもよいでしょう。
対処法のとしての呼吸法は、気持ちを落ち着かせるという場面では有効な方法なので、覚えておくと便利です。
まず、鼻からゆっくり息を吸い込みます。このとき、脇腹やおなかを膨らませるように腹式呼吸をします。息を吸い込んだら、一秒ほど間をおいて、「ふーー」っとろうそくを吹き消す時のようにしてゆっくりと息を吐きます。吐き終えたら、今度は長めに間をおいて、また息を吸い込みます。これをゆっくりと繰り返します。
鼻から息を吸い込むことで、鼻腔内の神経を刺激し、副交感神経が活発になりリラックス効果が生まれます。
呼吸を意識することで、呼吸が整い、不安感からも一旦気持ちをそらすことができる。

パニック症状が出ることを殊更に怖がって、そうなる可能性のある状況を避けようとしますが、それではなかなか解決には向かいません。身体的症状で肉体が損傷するような事は起こらないし、自然と収まっていくんだと理解し、その状態に慣れていくことで、症状を克服していくというのが改善の流れです。

まあ、そうは言っても本人にとっては、ちょっと恐いことではありますよね。
実は自分もちょっと高いところは苦手です。恐怖症という程ではないので、行けないことはないんですが、だからといってあえて無理矢理行くことはないですね。
どうしても、という状況の場合は、「絶対に大丈夫なんだ」と自分に言い聞かせ、おしりから背中にかけてひゅるひゅるした感じがくると、「おっとっと、来たぞ〜」ぐらいに思うようにしていますね。
慣れていくには時間がかかるのは仕方がないかもしれません。
少しずつでも改善できれば良いのではないでしょうか。


2015年7月24日金曜日

こころの健康と臨床 睡眠障害

暑い日が続くと、夜眠れなくなりませんか?
耐えきれずエアコンを付けて寝ると、今度は身体が冷えて、だるくなっちゃったりして。

睡眠は大切です。
気分障害の項でも触れましたが、睡眠不足は精神的な疾患のきっかけにも繋がる要因のひとつです。
なかなか眠れずに困っているという人は、あんがい多いのかもしれません。
睡眠についての正しい知識を得ることで、睡眠障害にならない予防と対処方法を身につけましょう。

睡眠には2種類があることは、一般的にも知られていることと思います。
  • REM睡眠 身体の休息。比較的眠りは浅く、呼吸も浅い状態です。
    夢を見たり、金縛りにあうのもこの時です。筋肉の緊張は緩んで力が入らないので、意識はあるのに身体が動かないと感じています。
    この時脳は主に記憶の再編と整理を行っています。脳の代謝は活発で目覚めへの準備を行います。
  • Non-REM睡眠 脳の休息比較的深い眠りの状態。
    4段階で深い眠りについていきます。身体は完全には弛緩していない状態です。
    主に大脳の休養を行っています。活発に働いている脳を冷却し、オーバーヒートを防ぎます。この時成長ホルモンが分泌され、子どもであれば、身体の成長を促し、大人は体組織の回復(大事なお肌の回復)や損傷箇所の回復に繋がります。
また、この睡眠によって、脳が得た情報が整理され(REM睡眠)記憶として定着される(Non-REM睡眠)働きがあるとされます。

このように、睡眠には重要な働きがあることがわかります。
寝る子は育つ、と言いますが、まさにしっかり寝ることで成長ホルモンの分泌を促す効果があるからです。お肌にとっても睡眠不足は大敵。でも、ただ眠れば良いということではないですね。ちゃんとNon-REM睡眠になってないと、何時間眠ったからといって、重要な成長ホルモンが分泌されていないという事になってしまいます。

睡眠時間は年齢事に変化してきます。高齢になると睡眠時間は減る傾向にあります。
これも睡眠のメカニズムを見ると、納得するものがありますね。
子どもの頃は、なんでも刺激的なので仕入れる情報量が膨大です。当然、情報の整理にも時間が掛かるはずですし、身体も大きくしなければならないので、一生懸命眠らないといけないわけです。
大人になるにしたがって、それほど新しい情報を得ることも少なくなってくるし、肉体的にも成熟しきっているので、それほど回復させる必要もなくなってくる、ということで睡眠時間も短くて済むのでしょう。
そう考えると案外、大人になっても眠れるっていいことなんじゃないのかな?

睡眠による脳の働きを知ると、勉強の一夜漬けに効果のないことも分かりますね。
記憶の整理、定着は睡眠中に行われるので、寝た方がいいのです。睡眠不足で試験に臨むなど、身体も脳も疲れたままで、記憶も整理されずに試験を受けることになります。
非効率極まりないですね。
と言いながら、自分もやってたなぁって思うと、その当時の無知な自分に教えてやりたい気分です。

睡眠障害に至るきっかけには、眠りに対しての過度な精神的反応もあります。
本来身体に備わっている体内時計と、就寝の時間がズレていくことで眠れなくなったりするのは良くあることです。また、睡眠時間も人によって個人差があるので、必ずしも8時間眠れないのは不眠症になった、と思い込む必要もありません。
要は、目覚めた時にすっきりとした状態であれば、眠りは十分足りているのです。
殊更眠れていないことを意識すると、「眠らなければならない」という思いに集中することで余計に眠れなくなるというスパイラルに陥ります。
精神的障害というのは、共通してこの負のスパイラルが何処かに生じているのです。

 睡眠障害にもいくつかの種類があります。
  • 不眠症:十分に眠れない
  • 慨日リズム障害:睡眠の体内リズムがずれてしまった状態
  • 過眠症:うつ症状やナルコレプシー(居眠り、情動脱力発作)
  • 睡眠随伴症 :夢中遊行(夢遊病)
    他にも睡眠時無呼吸症候群など
このように、眠れないだけではなく、過眠や夢遊病なども含まれた、日常生活の中で睡眠に伴うことによって引き起こされる障害全般を意味します。

それぞれの障害によって治療法は異なりますが、まず不眠症に対して認知行動療法の対処を解説していきます。
まず、不眠に陥っている過程において、その原因となるものに、睡眠を阻害する物事の捉え方(思考・認知)やそれに基づく行動がないかを探ります。
例えば、何かの心配事があって、それが頭から離れないことで眠れていなかったとします。
そのうち、眠れないことが原因で日中の仕事にミスが出たり、仕事中に集中できなかったりすると、眠れないことに焦りを感じてしまいます。
今度は眠らないといけないという脅迫観念に囚われて、眠ろうとすると「また眠れないんじゃないか」「早く寝ないとまた明日が辛い」といった考えで一杯になり、結局眠れなかったという繰り返しにはまっていきます。
原因は最初の心配事にあるという事を理解し、なぜ自分が不眠に陥っていったのかを分析することで、心配事と不眠とは別の問題であると認識(認知)できれば、不眠の解決に繋がります。
こういった誤った思考の捉え方、考え方を再認識していくことで精神障害の治療をしていくのが認知行動療法です。
もちろん、肉体的疾患に結びつくような生活習慣の改善は必要です。考え方を変えただけでは変わりません。むしろ、考え方が変わったから行動も変わったというのが本当で、行動が変わらないのは、実は考え方も変わっていないと言えます。
よく分かった、理解した、と言いますが、行動に表れないうちは理解したことにはなっていないんだということも認知したいところですね。

2015年7月23日木曜日

こころの健康と臨床 気分障害2

ここ近年になって、うつ病の一般的な認知度は上がってきています。
プチうつなんて言葉も出てきたり、有名人や芸能人などの告白や体験記、それらを原作にした映画が作られたりしています。
一昔前にくらべ、うつの症状についての理解も進んできていると思いますが、複雑な人のこころを理解するというのはなかなか困難なことです。

そうは言っても、うつ予備軍的な人は年々増加している傾向にあり、友人知人の中にもそういう人が現れてきているのではないでしょうか?
自分には関係ないと思っているかもしれませんが、周りにそういう人がいる場合にどう接すればよいのか、それ以上に、自分もそんな状態になりうるんだという認識を持つことが求められていると思います。

私もまさかうつになるとは、全く考えていませんでした。しかし、否応なく困難な状況に追い込まれていくと、自分ではどうしようもない精神状態になっていくものです。
体調は崩れ、吐き気に襲われることもしばしばでした。
幸いに、書店業をしていて、うつに関する本などは毎日のように目にしていましたから、知識だけは得ることが出来ていました。 そのおかげで、自分を省みる事ができ、ぎりぎりのところで踏みとどまれたのだと思います。
もし、なんの知識も持たずにあの状況にいたら、確実にうつ病になっていたのではないかと、振り返って考えてもそう思いますね。

今私は認知行動療法を学んでいますが、やはり知識を得るというのは重要で「心理教育」 という形で誰もがこころについての知識を学んでいく必要があります。
そうすることで、より円滑なコミュニケーションがとれる関係性を築くことができ、安らかな生活を営むことに繋がります。

さて、うつ病の症状で、もう一つ解説しておきましょう。
双極性障害と言われるものですが、簡単に言うとこれは躁の状態とうつの状態が交互に現れることによっておこる障害の事です。躁うつ病と言われたりします。
これは単純にうつ病と同じ治療法は当てはまりません。
薬による治療も、うつ病のものとは別種のものが処方されます。
なぜなら、うつ病の薬は、うつ状態を躁状態にする働きなので、これを双極性障害の躁の時に服用したら、更にハイになってしまうからです。

この躁という状態も、やる気や元気という範囲なら活発な行動力にもなりますが、行きすぎた状態になると、自分は何でも出来るという根拠の無い自信を持ち明らかに無謀な事でもやろうとする、客観的な判断力を無くし自分が絶対だと思い込む、といった精神状態になり、破滅的な行動も厭わなくなる危険が生じます。
障害というぐらいなので、こうなった状態では他人の言うことも聞かずに突き進んでいき、冷静になったときに、自分のしたことがとんでもないことだったと、今度は自責の念に苛まれて、うつの状態に陥っていく、という繰り返しに苦しむのです。

躁もうつも、日常生活の中では当たり前にある精神状態が、バランスを崩して過度な反応をしてしまっている事によって引き起こされます。
先ほどのように、躁もやる気や元気であれば快活な生活になりますし、うつも自己反省や自己批判として受け止めて自身の向上に繋げていければ、弱点の克服という自己啓発になっていきます。
問題はその方向に向かうベクトルが突き抜けてしまうことにあります。正常な範囲を行き来するのが本来のバランスなのに、振り幅が異常に大きくなってしまうことで障害にまで至ることになります。

このバランスが崩れる要因には、肉体的に次のような状態になっている場合が挙げられます。
  • 睡眠不足
  • 体調不良
  • ストレス
  • 肉体疲労
このような状態で慢性的な生活を送っていることによって、耐えられる限界を超えてしまうことになります。

ようするに、健康的な生活を送れば大丈夫なんだということですね。
要はバランスの問題です。

よくある例えとして、人間の状態を丸い円に置き換えて例えるというのがあります。
円の形というのは、どこにも引っかかりがない状態なのでスムーズに転がりますよね。
でも、どこか一部が出っ張って、角の様に尖ったりすると、そこが引っかかる。
表面がでこぼこになればなるほど、 転がりにくくなって行きます。
バランスを崩すというのは、それと同じ事なのです。
軽やかに転がるには、バランス良く丸くなっていなければなりません。

行きすぎても、足らなすぎてもダメ。

そんなふうに自分を見ていけば、バランスを欠いた部分も修正できるのではないでしょうか? さあ丸くなって軽やかに生きましょう。


2015年7月22日水曜日

こころの健康と臨床 気分障害

精神障害と定義されている症状は、アメリカ精神医学界によって定められた診断・統計マニュアルによって基準となる定義が決められています。
障害の状態を分類して定義したものですが、主にDSM-Ⅳ-TR(Diagnostical Statistical Manual of Mental Disorders Ⅳ)によって定義されているところから、気分障害(うつ病性障害、双極性障害など)についてを解説します。

まず、気分障害とは?
DSMで分類された定義によると
  • 大うつ病性障害(うつ病)
  • 気分変調性障害
  • 二重うつ病
  • 双極性障害(躁うつ病)
このように、うつと言っても症状には色々とあって、またその混合型もあるので、単純に気分が落ち込んでるからうつであるとは言えません。日常的に気分が上下することは当たり前ですし、それは正常な反応であるわけです。

では、うつ病と診断される状態についてDSMが定義するところは、
  • 抑うつ気分
  • 興味または喜びの喪失
これに加えて
  • 食欲体重の減少/増加
  • 不眠のまたは過眠
  • 精神運動性の焦燥・停止
  • 易疲労感、気力減退
  • 無価値、罪責感
  • 思考・集中低下、決断困難
  • 自殺念慮、自殺企図
こういった状態が 5つ以上で、2週間以上続き、生活に支障を来した場合です。
多くは朝方が一番つらく、男性は5%〜12%、女性で10%〜25%ぐらいが発症するとされています。

うつ病の行き着く先で恐いのは、自殺願望に到達してしまうことです。
なので、うつの症状を早期発見して適切な処置をすることが重要です。本人が気付かない場合も周囲の人が気付いてあげることで、重篤な状態を回避できます。
次のような、うつになりそうなサインを覚えておくと役に立ちます。

「知情意&身体」の症状

  • 思考(知):考えがまとまらない、決められない、理解力が落ちた、堂々巡り、自分を責める
  • 気分(情):憂うつ、気が晴れない、もの悲しい、不安、イライラ、感情的
  • 意欲(意):何をするのもおっくう、興味をもてない、根気がない
  • 身体症状:不眠、食欲低下、性欲減退、頭が重い、倦怠感、吐き気、めまい
こんな状態を周りから見ると、
「彼、ちょっとミスが多くなってない」「なんかここんとこ過剰な反応するんだよね〜」「最近つきあい悪くない?」「 なんかお昼も食べないけどダイエットでも始めた?」
「ちょっとなんかやつれてない」
こんなふうに、「なんか今までと違うなぁ、ちょっとおかしいぞ」と思えるような行動になってきたら、うつの初期症状を疑ってみると良いかもしれません。

そうなったとき、どうやって治していくかですが、まずはとにかく休むこと。
それと早めに薬を飲むこと。早いうちに服用すれば短期間で済むはずです。

周りの人のサポートでやってはいけないのが、「頑張れば大丈夫だよ」という激励や「どっか旅行でも行って気張らしするといいよ」といった励ましです。
ついつい言ってしまいがちですが、これはまずいことなので注意しましょう。
これを言われた本人はどういう状態になるかを理解する必要があります。

「頑張れ、おまえなら出来る!」

→「もうせいいっぱい頑張ってきてこうなってるのに、これ以上なにをどう頑張ったいいんだ、もう頑張れない自分はダメなんだ」
と更に自責感と絶望感を募らせることになります。

「気晴らしに旅行に行ったら?」

→「やってみたけど、楽しめなかった。なんだか疲れただけだったなあ、もう何やっても疲れちゃうし、何も出来ないや」
という疲労感と無力感が増大されることになります。

良かれと思って声を掛けているのに、本人にとってはより自分を追い込む言葉になってしまって、苦しんでしまうのです。

それから、うつの回復状態ですが、一気に治るということではありません。
良い状態、悪い状態を繰り返して、だんだんと良くなっていくという事を理解しておきましょう。なので、長期休養から復帰して治ったと捉えられがちですが、社会復帰出来るまで回復したということで、完治したというものではないということです。
ありがちなのは、復帰してもまた直ぐ調子が悪くなって休むと、「なんだちゃんと治ってないのか、しっかり治してから出てこいよ」みたいな空気になること。
そもそも、その職場の状態でうつになったのだから、戻ってきても何かうつとなる要因に触れると、また症状がでる可能性はあるはずです。それを克服するまでは、マラソンのような長期リハビリが必要になるということを理解しておきましょう。

うつ病になる人と思われがちな性格に「精神的に弱い」「頑張れない」「怠け者」といった人のイメージがありませんか?実際はこの逆の人の場合も多いのです。
だから余計に、あんなに頑張って仕事も出来ていたのに、といったイメージを持たれていて、つい激励や励ましをしてしまうということもあると思います。
完璧主義の人や協調性のある人、頑張り屋さんなども、それらがエスカレートしていって裏目に出てしまい発症するという事もあります。
例えば、協調性があるのは良いことですが、本人にとっては頼まれたら断れない、自己主張が出来ない、対人関係の葛藤を抱え込んでしまう、など負の要素も持っているという場合があります。それが抑制されて耐えきれなくなるのが原因でうつになる、といったような、一人一人の特性を理解して、どうなるとうつの予備症状に繋がるかを把握していく必要があります。

このように、自分の持つ性質についても自己理解をしていくことで、どうしたら裏目にでないか、その状態になったときに回避する技術(アサーション)を身につけましょう。



2015年7月20日月曜日

こころの健康と臨床 臨床心理学

こころの健康は、社会的に大きな問題となっています。

非常にストレスの多い時代となっているにもかかわらず、それをどの様に処理していけばよいのかを誰も教わることなく社会生活を過ごしています。

そもそも、このストレスとはどのように私達の肉体に影響を及ぼしているのか?
その事を理解していかないと、どう対処していけばよいのかが分からない。

ストレスとは何か?
 刺激により引起される非特異的生体反応。生体に加わる力をストレッサー,それによって起る生体の反応をストレスという。 1938年にストレス理論を提示したカナダ生化学者,H.セリエによると,「ストレスとは,どんな質問に対しても答えようとする身体の反応」である。
                本文は出典元の記述の一部を掲載しています。
               <ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説より引用>
というように、簡単に言うと外部からの刺激による肉体の反応ということなんですね。

身体に刺激を与える(負荷をかける)というのは、運動と言えるでしょう。 とにかく身体を動かす事は負荷を掛けることですから、当然「疲れた〜」となります。
疲れたら休む。ゆっくり眠れば体力も回復。
普通ならそれで済むわけですが、過度な運動を続けていくと、ちゃんと回復しないまま更に負荷をかけていくことになるわけです。
すると、どうなるか。
これまた当然、身体を壊す。という事態になりますね。

そんなの当たり前じゃない!

そう。みんなそう思っているでしょ。

「そんなの分かってるよ。でもやらなきゃいけないから頑張ってるんじゃない。 疲れたなんて言ってられないんだよ!」
でも、身体を壊したら元も子もないじゃあないですか。

身体が疲れたというのは、分かりやすいですよね。では、精神が疲れるって事をどれだけ意識していますか?
精神だって同じ肉体なんです。疲れて当たり前。むしろこの精神的疲労の方が肉体に与える影響については重要であると言えます。
純粋に肉体疲労だけなら休めば回復します。でも、精神的に辛かったり、悩んでいたりしたら、何時までも疲れがとれない、という経験はありませんか?
逆に、とても楽しいことをしながら身体を使っているという時には、むしろ心地よい疲れだなあ、なんて思ったことはありませんか?

精神と肉体は連動しているのです。気の持ちようだ、なんて言い方もされていますよね。
でも、本当にそのとおりで、精神的なストレスから肉体への影響によって病気が発症してしまうという事を、案外軽視されてはいないでしょうか?

それは、精神(こころ)についての正しい理解が成されていないことだと思います。
教育では肉体の健康促進として体育の授業はありますが、精神の健康についての授業ってのは聞いたことがありません。
目に見える部分についてのアプローチはあるけれど、見えない部分については疎かにされているという気がします。むしろこの見えない部分の方がより重要であり、見えているものだけでは解決しない部分に意識を向けていかなければならない時代になったのでは、という気がしています。

一昔前でしたら精神を病んでいるという言い方に、ちょっと恐いような印象を持たれていたと思います。実際にそういう事は世間体が悪いから 人前では言えないとか、仮にそういう人がいたらなるべく外に出さないとか、そういう社会的な認知があったと思います。
しかし、最近では誰でも精神的な疾患が起こりうることはあることだし、”うつ”という言葉も社会的な認知度が増したという感じで、昔よりは理解度は上がっていることでしょう。
それでも、まだまだ正しい理解という意味では、非常に不十分と言えます。

最近は心理学に関する簡便な本も多数出版されていて、大分身近なものとなっているように思います。だれもが関心をもって知識をえられることは良いことだと思いますが、反面みんなそんなに悩んでるのかなって思う部分もありますね。

心理学というのはもともと哲学が起因にあって発展してきました。それが医学と結びつくことから精神医学の発展となりますが、脳機能の科学的解明によるところや、精神疾患の臨床データ分析による診断基準の確立が進んだのはつい最近のことになります。
現時点でもまだ解明されていない事項はあって、その複雑、難解さが一般的理解を遠ざけている要因になっていると考えられます。学術的な解明については、これから更に新たな発見がされることと思います。

そうは言っても、現実に悩み苦しんでいる人が今そこに居るわけですから、そこを何とかしていかなければならないわけで、そんな症状を改善する一つの療法として認知行動療法があります。

認知行動療法 CBT(Cognitive Behavior Therapy)
 「クライアントとの話し合いで、新しいものの見方や考え方、取り組み方を見つけて、クライアント自身が思考(認知)や行動のレパートリーを増やすことで、問題解決の方法に導く支援をする治療法」

精神障害に至る過程には、その人のこころの中にあるひとつの概念に囚われてしまっている事が要因としてあります。いわゆる、過度な思い込み、であったり、過剰な拘りであったり、他人から見れば何でそんなことで、と思うような事が、本人にとってはとても耐えられない状態であったりするわけです。
ではなぜそうなっているのか。
こころの仕組みを知る事で、自分自身の認知(物事の捉え方)を理解すれば、そういう苦しい状態から解放されます。そもそも自分でなぜそうなっているか分からないから、冷静な判断が出来ず、過剰に意識してしまい感情が暴走して、興奮状態になり、それを意識することで更に感情に拍車を掛けるというスパイラルに陥る。
それが高じるとパニックに陥り、障害として見なされる。
そういう精神の構造もきちんと理解していれば、自分のこころの癖として認知できるわけです。
本来人の考え方は多種多様なわけで、色んな見方があります。全てのものがそれぞれ違っているのが自然であり、それがこの世の中なわけなんです。自分だけの考えに固執することで他の在り方を拒絶するという生き方そのものが自然に反すると考えたなら、もう少し楽になれるんじゃないかと思います。

さて、こころの健康に関しては更に具体的な精神障害について 、認知行動療法のアプローチについてを話していきたいと思います。


2015年7月18日土曜日

なんだか辛くはないですか?

病んでいるなあ。

なんだか最近の世の中、そう思う事があるんですけど、昔からそんなだったっけ?
本当は昔だってそういう事はあったんだろうけれど、ここまで表面化してなかっただけなのかもしれないですね。

何の話って、精神的な苦痛や苦悩を抱えている人達が多くなってませんか?
自分の感覚では、なんとなく20年前あたりから、周りにも気分障害的な人が見受けられるようになった気がします。

その頃自分は書店で働いてました。
書店にいると、世の中で今何が注目されているのか、どんなことが起こっているのかが見えてきます。週刊誌や月刊誌の表紙を見れば、今話題になっていることが見出しとなって飛び込んできますし、売れている本はその時の流行を表しています。
本は月曜日から土曜日まで、毎日新刊が入荷されます。
実に毎日100冊以上の新刊が発行されているんですが、知ってました?
その日に発行された本のリストが新刊の入った段ボール箱に入ってくるのですが、A4サイズの両面にびっしり、日によってはそれが2枚、3枚だったりしました。
その中の一部しか、書店には届いていないんです。
そのリストの書名を見ながら、入荷してない本で”これは”と思うようなタイトルの本を発注するのが、毎朝の仕事でした。

売れる本は沢山入ってくるんじゃないの?
そう思うかもしれませんが、全く逆。
そもそも始めから話題になってるような本は、発売前から書店の争奪戦が始まって、いかに早く注文を取り付けるかが勝負になります。 そこには大手書店の力関係というバイアスがかかっているので、手をこまねいているとごっそり持って行かれて、売れると分かっている本なのに発売当日の入荷は2冊!
なんてことになってしまうのです。

そうなると、弱小書店としては、まだ誰も気付いていないこれから来るであろうベストセラーをいち早く見つけ出して、何処も注文しないうちに先に確約してしまえっ!という考えに行き着くわけです。
だからもう、世の中の事にアンテナをビンビンに張りまくり、これからどんなブームがくるか常に察知するような体質になっていました。
まだ話題にもなってないようなコミックを取り上げて、後になってそれがTV化されたりすると、してやったりの気分です。
書籍の場合はちょっと難しくて、3ヶ月以内に売れてくれないと、買い取りになるというリスクがありました。ある本など、出版社の営業が新刊の注文取りに来た時に、ピンときて大量発注しました。著者は外人で初翻訳の上下巻ものだから、誰も知らないわけで、案の定ぜんぜん売れてくれない。もうレジ前の一等地にドーンと積み上げてるのに、ホントに売れないんです。3ヶ月経ってもまだ数冊しか売れない。
もう返品しないと全額支払いというプレッシャーが来る中、これはもう意地でも置いておくぞ、と売り場の一等地を不当占拠したままでねばっていたら、それから半年後にTV番組に取り上げられて、結果追加注文というホッとした出来事もありました。
先取りしすぎも商売にならないという学びでしたね。

なんだか話が脱線しましたが、そんなふうに毎日入荷する本を眺めていると、ある時期から”こころ”に関する本が目に付くようになってきました。タイトルに”うつ”という文字が入っている本も目立ってきて、それが専門書ではなく読み物やエッセイといったジャンルに多くなってきたのです。
たぶんそれが20年前あたり、1995年頃からではないかと感じているわけです。

振り返ってみても1995年 というのは、阪神大震災、地下鉄サリン事件という当時史上最大の衝撃的な出来事があった年です。また一方ではグーテンベルグ以来の情報革命とも言われたインターネット元年とされる年でもありました。

では、それ以前と以後ではうつ病患者の数はどれほど違うのか?
と思ってちょっと調べたら、厚生労働省の調査レポートに気分障害の年度推移があったのですが、平成8年(1996年)からのデータなんですね。どうやら3年ごとに調査しているという事らしいですが、平成11年(1999年)までは43.3万人-44.1万人でしたが、平成14年(2002年)には71.1万人、その後増え続け平成20年(2008年)には100万人を超えています。
なんとなく感覚として思っていた事は、ちゃんと数字にも表れていたわけです。
1996年からのデータというのも、その頃から本格的な調査が始まったということなのかは分かりませんが、やはり1995年を区切りにというふうにも見えます。

それ以前というのは、やはり気分障害というもの自体の捉え方が稀薄だったと思います。
”うつ”というのも気の持ちようだと一蹴されてしまったような社会感覚ではなかったでしょうか。ヤル気がもてはやされた時代とも言えますか。
たぶん、同じように苦しんでいる人達はもっといたのでしょうが、それが疾患として認められていなかったんじゃないかという気がします。
逆に今は些細なことでも障害なんじゃないかと過敏になっているところもありそうですが、いずれにせよ心理的な事のもっと正しい知識を得る必要があると感じています。

障害に苦しむ人の理解も大切ですが、自分自身の心理を知ることもまた、自己の悩みや苦しみを解放する手段として有効なことです。
こころを知るというのは、なかなか複雑で困難な作業でもありますが、恐れず克服していく事でとても穏やかな暮らしを手に入れられます。

20年前の頃から、自分自身が色々と悩み、考え、経験した中で得られた気づきから、何かヒントを得て頂けたら嬉しく思います。

2015年7月16日木曜日

ブログ始めました。

SNSはやっていても、ブログはここ数年書いていませんでした。

自分の中ではこの数年間は激動の年という思いがあります。

今年になって、少しは落ち着いて来たような感じもしているので、そろそろその激動の中で味わった想いとか、得がたい教訓であったりとかを、伝える事ができたらと考えました。

そういう訳で、ブログ始めます。