2015年8月27日木曜日

なにがそうさせている 生き方編2「殻を作っているのは何」

「殻を作っているのは何」

殻や壁を作るというのは、内側と外側を隔てる行為です。
内側は自分自身であり、外側は自分に及ぼす影響全体を指します。
人間は常に外界から、なんらかの刺激を受けて生きています。そしてそれは自分を取り巻く環境から大きな影響を受けていると言えます。
一番影響力の大きな存在は両親でしょう。
家庭環境とは、すなわち両親との関係性による部分が大きな位置を占めています。さらに兄弟姉妹、祖父母という家族との関係性、次に友達となる人との関係性、といったようにコミュニケーションの巾が広がるにつれ影響を受ける対象も広がっていきます。

このように、人は常に外側からの影響にさらされて生きていきます。
その外側から及ぼされる影響に対して、それを自分にとって良いことであるかどうか判断し、どの様に対応するかを選択しています。
もちろん、自分自身も意思表示という方法で、周りに対して影響を与えてもいます。
赤ちゃんの意思表示は泣くことです。
泣くことによって、自分の求めるものを得ようという行動です。それに影響されて親は何事かと赤ちゃんを気に掛けます。
この時、泣いている赤ちゃんがほっておかれたらどうなるでしょう。
赤ちゃんにとって、最大の意思表示である泣くことが誰にも伝わらないとしたら、その赤ちゃんは、泣いていても欲しいものは得られない、という思いになりませんか。
それが、赤ちゃんの認知した状況ということになります。

次に、認知した状況に対して、どのような反応をするべきかを自分の中で作り上げます。
この場合、
泣いていても疲れるだけだから、泣くのは極力止めよう。
と考えたとしたら、あまり泣かない赤ちゃんになるかもしれません。
あるいは、
泣くだけでは不十分だ、自分から動かなければならない。
そう考えたとしたら、人一倍早くハイハイが出来る子になった。
ということもあるかもしれません。

このように、起こった一つの現象である状況を、どのように認知して行動するかで人の心理を探求するのが認知行動心理学の考え方です。

赤ちゃんは、そうやって自分の周りに起こった現象を捉え、自分の中でどの様に行動するかを決めていきます。もちろんそれは自分にとってそれが都合の良いであろうことを選択します。
生まれたばかりの人間の赤ちゃんは、周りから手を掛けてもらわないと生きていけません。
赤ちゃんの泣く行為は生きるという意思表示であり、生かして欲しいという自己主張でもあります。
生存という、生命の根幹に関わる問題に、赤ちゃんは生まれてすぐに直面するわけです。
この瞬間から、自力で生きる為の選択という自己選択決定権が与えられる事になります。

赤ちゃんは自己中心的欲求の塊です。
それは生存に直結する欲求ですから、当然と言えます。
これは生命の根源でもあるので、人としても例外ではなく、むしろ本能としてこの欲求を満たすために行動すると言っても良いでしょう。
この欲求は無意識の中に深く刻まれているので、普段意識することは滅多にありません。しかしその部分が、自分でも気付かないまま、少なからず感情や考え方にバイアスを掛けている事でもあります。

さて、赤ちゃんであるうちは良いのですが、自己中心的欲求を満たすための行動は、段々と制限されていきます。
そのうちに、「わがまま」と言われちゃうわけですね。
赤ちゃんは日々新しい事に興味を持ち、色々なものを得ようという欲求が膨らみます。人間の社会で生きていくには、人とのコミュニケーションは不可欠であり、社会の情報を得ることは生存に関わる問題であるからです。
生命として孤立しては危険である、という意識が本能として備わっているとしたら、人が誰かと繋がっていたいという欲求は自然なことであり、一人になることへの恐怖という意識は無くならないのです。
現代の問題には、このコミュニケーションによる問題が、とても表面化しているように思われます。

こどもが成長する過程で、自己中心的欲求による意思表示と、それに対して周りが反応した事によって起こる現象に、自分がどう反応するかでコミュニケーションの方法が決められます。
そのように反応することが、自分にとって都合がよいと判断するわけです。
そういう現象を繰り返していくことで、自分の行動パターンが決定づけられていきます。
このことによって、自己が形成され自分とはこういう人間であるという自意識となっていくのです。

殻や壁というのは、往々にして他者との間でのコミュニケーション中に、自分にとっての何かしらの不都合な現象が起こった場合に表れると言えます。
殻や壁というのは、防御したいということですから、それ以上触れて欲しくないという反応ということになります。
その事に関しては、自分が子どもの頃から培ってきた行動パターンに当てはまる反応をしているわけです。自分はそれをすることで自己形成してきた、これが自分なんだという揺るぎない信念があるのです。
信念という認知が自分にあるので、それはとても強固なものとなっています。
なぜなら、常にそれは自分にとって不快なものだという認知を繰り返してきたからです。

しかし、よく考えてみると、自分が不快と思っている事でも、他の人にしてみれば全く気にならない事であったりします。
これはどういう事でしょう。
つまり、それを不快と思った、認知したのは自分であって、同じ環境であっても、そうは捉えない人もいるということです。
同じ環境で育ったはずの双子であっても、性格が違うというのは、それぞれの認知のしかたが違っているからなのです。

まずは、殻や壁を作った原因となる現象が何か、自分自身の中で探ってみることです。


2015年8月24日月曜日

なにがそうさせている 生き方編1「自分の殻を破る」

「自分の殻を破る」

自分の殻を破る、壁を壊す、ブレイクスルーする、言い方はいろいろありますが、自分を変えたいと思っている人はかなりいると思います。
自己啓発の本を読んだり、セミナーに通ったり、色々な方法を試して、変わりたい自分を求めていることでしょう。
しかし、それで本当に変われたという人は、はたしてどれくらいいるのでしょう。
もちろん、それで全く変わらないとは思えません。
新しい発見があり、いままで気付かなかった物事の捉え方を受け入れた時に、変われた自分に出会うかもしれません。だたそれで自分の殻が全部無くなったと言える状態になったでしょうか?
もしかして、また別の殻があることにも気付いたということはないでしょうか。

多分、本を読んだり、セミナーに行ったからといって、いっぺんに自分の殻が無くなったという状態には、なかなかならないはずです。
そうでなければ、あれだけ同じ内容の本が際限なく出版されることはありません。
本を読んで何かに気付いた時、殻の一部が破れる、というところでしょう。同様にセミナーに行って今までと違う体験によって、違った自分を発見するのかもしれません。
その時、なるほどこういう事だったのか、と理解したことでしょうが、日常生活に戻って暫くするうちに、また元の自分に戻っている。
そういう感じを抱いている人はいませんか。

殻を作ったり壁を作ったりした自分は、今までその殻を磨き、壁を強固にすることに努めてきたはずです。年月を掛けて積み上げてきたものを、今になって壊すということには、無意識の中に抵抗感があるのです。
慣れ親しんだ習慣ですから、それを変えていくには、常に意識的に新しい行動習慣を自身に課していかねばなりません。なんでもそうですが、慣れるまでは多少の苦痛が伴うのです。
人間は理性よりも感情を優先させがちです。頭では解っていても、気持ちが乗らないと、今までの行動パターンの方が楽なので、そちらに流されてしまいます。
本を読んで理解したとしても、それを行動に移すには今までと違ったエネルギーが必要になります。それを発見したときは、気持ちも高揚しているので、やる気のエネルギーが勝っています。ですが、日常ではそれを持続する方が労力になってしまうので、なかなか継続できないということになってしまいます。
また、セミナーでの効果はより高いものと思われます。
そもそもがセミナーという非日常空間での体験であるので、環境の違う中での自分という特殊な状況による成果が生まれます。これはとても強力で、自分が変われた感覚がより感じられることでしょう。
日常という枷が外れる事によって、今までにない行為が出来るようになります。
その時の行動パターン、思考パターンというものが、確実に身について意識せずとも同じ行為が出来るなら、そのミッションはクリアしたと言えるかもしれません。
しかし、これも日常生活に戻った時、また以前のような行動や思考になっているとしたら、完全に殻を破ったとは言えません。
せっかく大きく穴をあけた壁だったのに、また自ら穴を修復していった事になってしまいます。

多分、ほとんどの人が、そういう状態で元に戻ってしまうのです。
すると、せっかく発見したその方法が、自分には合っていなかったからだ、と考えて、また別の方法はないかと探してしまうことになります。
そうやって、次々と新しい方法を求めて本を読み、セミナーに通うという行動を繰り返してしまうのです。

本当なら一度破いた殻や壁は、無くなったままであるはずです。それがまた出来るということは、再び自分自身で作り上げている、という事です。

殻や壁は、自分で作っている。

この事をきちんと理解しなければなりません。
こう言われると、
「そんなのは解ってるんだ、だから壊したいのに!」
そう思うかもしれません。

では、なぜその殻や壁を作ったんですか?

こう質問されたら、明確に答えることは出来ますか?

殻を破ること、壁を壊すことにばかり意識を向けていますが、そもそもその殻や壁を作った目的はどこにあったのでしょう。
その殻や壁は、あなたにとってとても必要なものであったから、自分でせっせと作り上げてきたもののはずです。
なぜあなたにとって、それは必要だったのでしょうか?

殻や壁は必要だったから存在しているのです。必要がないとなれば、要らないものです。
そうなればそこには何もありません。

殻や壁を作るということは、その中に何か守るべきものがあるからです。
外と内を隔てるものを作るということは、内側にある何かを守る必要があると思っているからに他なりません。
そうまでして守らなければならないものを、あなたは持っているという事です。

その守るものをそのままにして、殻や壁だけを壊そうとしても、その行動は、本来守るものを見ないようにして殻や壁を壊そうという行為です。殻や壁を壊したと思っても、守るものがむき出しになっただけなので、壊したはずの殻や壁をまた修復しようとしてしまうのです。

殻や壁を壊したとしても、根本の解決にはならないというのは、こういった構造によるものです。そうなると、いくら殻や壁を壊す方法を変えていったとしても、その行動には意味が無いということが解るはずです。

それでは、この守っているものとは、いったい何なのでしょうか?



2015年8月22日土曜日

なにがそうさせている ビジネス編13

「成功とはどこにあるのか」

ビジネスで成功すると言った場合、まずは収益を上げていくことが挙げられると思います。
会社を大きくして、株式上場する程の大企業になること、これも成功と言えるかもしれません。
では、どこまで大きくなれば成功のゴールとなるのでしょう。
収益を上げ続けて、会社を大きくしていくことには際限がありません。
そうなると、成功とはゴールのないものになります。
成功することが目標である、とした場合、目標とは想定した結果を達成することですが、収益や会社の拡大が成功であるなら、到達点はどこにあるのでしょう。

世の中の仕組みでは、成長と共に衰退もあるのが原理です。
売上げの向上、会社の成長も一定期間を経た後、衰退期に入っていきます。向上、成長が成功であるとしたなら、衰退となったとき成功は失敗になるのでしょうか。

ほとんどの人が目標として成功することを望んでいます。
しかし、成功の捉え方によっては到達点のないものになってしまいます。
他の人を見て、あの人は成功者だ、あのように成功したい、と言いますが、それは何をもって成功であると言っているのでしょう。
自分には無いものをを持っている、自分にはできない事をしている、そういう人を指して成功している人という意識を持っていませんか。そこには自分と相手とを比較している考え方が根底にあります。
では、そうした成功者と思える人に「あなたは成功しましたね」と尋ねてみたとしたら、ほとんどの人は「そんなことはありません」と答えるでしょう。
それは自分の中での成功というものには、到達点がないからです。
本人は成功している自覚は無いのに、他の人からは成功者であるという目で見られる。持っていない者には、持っている者が成功者として見えるという事なのです。

では、成功の本質とは何なのでしょう。
この様に目標達成の結果を成功としたら、成功に終わりはありません。成長への欲求自体は人間の本質で、新たな目標は常に掲げられ、限りはありません。だとしたら、そのプロセスこそに成功の本質はあるのです。

一言で成功と言っても、それはその人の捉え方によって違います。人の数があるだけ成功はあると言ってもいいでしょう。自分は何を成功と考えているのか、ということです。
改めてそう問われた時に、あなたは何を思い浮かべるでしょうか。
収入ですか、地位ですか、それとも権力とか。
「いやいやそんな大それたものじゃなくていいんだ、会社が上手く行っていればいいんです。」
「ちゃんとした暖かい家庭を築いて、平和に暮らすことです。」
「私にとっては、結婚できたら成功です。」
なるほど、なるほど、では会社が上手く行くってどういう状況ですか? 平和に暮らすとはどの程度の事ですか? 結婚したらその後はどういう暮らしでも良いのですか?
ここで言っている事は、全てが条件付きの目標である、ということです。
こうなりたい、という条件を付けた時点で成功という本質からはズレていきます。
条件を付けたものは、目標であり、達成するという結果を求めているものになります。
始めに言った、成功者に対する思いというのは、その人が達成した一つの状況が、自分にとっての目標であるという意識のすり替えで言っていることなのです。

本来、成功という意味では、目標とした結果を達成できたら成功であると言います。
逆の意味で失敗と言えば、予想もしくは予定した結果が得られない場合を言います。
何かを予想して行動するという事は、日常のどんな場合にでも当てはまります。つまるところ、生きている中で成功と失敗は常に繰り返し行われているのです。
ところが、「ビジネスで成功するには」「人生の成功を手に入れる方法」といったものを目にすると、何か究極の到達点があるように思ってしまいます。
または、周りの人に「成功しなければダメだ」「必ず成功しろ」「成功者になれ」というような言われ方をすると、自分にとって何が成功なのかを明確に解らないまま、他者の示すところの成功を追い求めてしまいます。

近代社会では物質的欲求を満たしていくことが求められた事でした。裕福さというのが一つの成功という意味で人々の中に意識されたことであると言えるでしょう。
ビジネスにおいては、収益を上げることを第一としますから、その意味では物質的欲求の成功には当てはまると言えます。しかし成長の欲求を満たすとすると際限がありません。むしろビジネスにおける成功というなら、拡大ではなく、利益を継続して確保することこそが成功であると言えるでしょう。

成功という言葉が拡大解釈されて一人歩きすることで、よけいな迷いが生じているのです。
人生の成功、とか成功する生き方とか、本来そこには数値で表されるような決まり切った状況があるわけではありません。千差万別の生き方があるだけです。それをさも何かを見つければ成功というカギが手に入るというように思ってしまうと、出口のない迷宮に入ってしまうだけです。

人生の成功とは、自分自身が決めた目標を達成することで得られる満足感を言います。目標が大きくても小さくても達成したらそれは成功であると言えます。日常で行動していることは、全て予想した未来に向かって行動しています。それが思い通りに出来たとしたら、それは成功したことです。一つ一つの行動に成功か失敗かを当てはめていったなら、あなたはいかに成功した生き方をしているかが実感出来るはずです。
更に言えば、上手く行かなかった事でも、それは予定した通りにならなかった、という意味での失敗になりますが、その事に取り組んだことに後悔はないはずです。むしろやらなかった時の方が、後悔は増していると思いませんか。
人生における失敗とは、上手く行かなかった結果より、取り組まなかったことの方がダメージは大きいのです。

人生としての成功は、結果ではなく、いかに自分自身の望む事をやり遂げられるかなのです。
自分の思う事をやり遂げ続ける生き方こそが、成功した人生であると言えるのです。


2015年8月20日木曜日

なにがそうさせている ビジネス編12

「リーダーの資質」

数人の集合体によって何らかの行動をする場合、そこにリーダーが必要になります。
ビジネスで言えば、プロジェクトチームのリーダー、会社の部署であったら課長、部長という立場、または店主と従業員という関係もそういえます。
部下の指導、従業員の指導ということで頭を悩ませている人が、案外といるかもしれません。

しかし、この指導という言葉のニュアンスに、学校の先生や教官による指導といった感じがしてしまうところにちょっと違和感を覚えます。どうしても上から目線というか、言う通りにするものである、という感じでしょうか。
同じように、上司と部下、または経営者と従業員という立場では、使う者と使われる者、といった上下関係で話が進んでしまうように感じます。
コミュニケーションの話でも触れましたが、円滑な人間関係を築くことで最高のパフォーマンスを引き出すには、まずお互いが対等であることが前提であると言いました。
この場合も、リーダーとは一つの役割であって、上下関係を意味するものではありません。

リーダーの役割とは、グループの進む方向性を決め、メンバーを導くことにあります。
さらに、そのグループで達成する目標に向けて。それぞれが最高のパフォーマンスを発揮出来る環境を整えることもリーダーの役割です。
そうなると、リーダーの資質としては、グループの皆が自主的についてくるような人間性が必要となります。
個人が最高のパフォーマンスを発揮するのは、それに自主的に向き合っているときです。人から言われてやらされているような状況では、パフォーマンスは上がりません。
そんなことは誰でも身に覚えがあるでしょう。
親に言われて、仕方なくやったとか、先生に叱られて、いやいや補習をやった、とか。
特に立場が上の人から押しつけられた感じでやったことで意欲的に行動したことはないと思います。
ですから、無理矢理「俺についてこい」という事がリーダーであるとは言えません。

経営者や上司という立場を、上からのものとして部下や従業員に接してはいないでしょうか。

その前に、まず明確にしておきたいのが、業務の内容についてです。
システムとしてプログラムされた手順を行うというのは、作業です。
これは誰でもその通りやれば、一定の結果が出るという機械化されたものといえます。
一方、仕事という意味では、個人の能力によって成果を上げられる部分といえます。

作業の部分については、手順を教えるということなので、指導と言って良いでしょう。
誰もが同じ手順を覚えなければ、システムとして成り立ちません。ここでは全ての人に一定のパフォーマンスが求められます。個別にばらつきがあってはならないので、皆が同じように出来るために指導するといえます。
では、仕事の部分についてはどうかというと、ここは個人の能力を見きわめ、それぞれの人がいかに意欲的に仕事に取り組み、生産力をアップさせられるようになるか導いていくことが求められます。画一的なやり方を指導といって押しつける部分ではありません。
この作業と仕事という部分を明確に区別して部下や従業員に接しなければなりません。
仕事の成果は人それぞれの能力によって、やり方は違います。
同じようにやっても、上手くいく人とそうでない人とが出てきます。自分なりのやり方を見つけることで、仕事の成果は生まれてくるのです。
それなのに、上司は自分のやり方を押しつけてくるのです。上司はそれで成果を上げてきた自負がありますから、そのやり方が正しい事であるという自信を持って”指導”してくるわけです。
さて、ここにそもそも指導が成り立たないことがお解りでしょうか。
この作業と仕事を一緒くたにして部下に同じ対応をしてしまうことで、仕事の部分に意欲を持てない状況が生まれてしまいます。

作業については指導、仕事については導き。

リーダーはここを明確に区別して相手と向き合わないと、部下がついてきてくれる関係性を築けません。
さらに、パフォーマンスの向上の為には、それぞれが伸び伸びとした精神状態である必要があります。
人は他人からの否定や批判によって、萎縮してしまいます。そのような状態では考え方も硬直してしまい、良いアイデアも出てこなくなってしまいます。
誰もが自分の発言に対しての周りの目線というものが気になっています。
「こういうことを言ったら、どう思われるだろう」「余計な事は言わない方がいい」「言い出しっぺが責任とらされちゃたまらない」「どうせ言っても採用されない」
こういった思惑が蔓延して、とても静かな会議になったりしませんか。
これでは個人の能力が発揮される場がありません。皆それぞれ発想が違うからこそ、新しいイノベーションが生まれるのに、ここでも変化に対応することを恐れる意識が働いています。
いかに皆と違う事を言うのが恐いことであるかの証明と言えます。

リーダーは、その変化を怖がることはないと示してあげなければなりません。そこに安心感を与えることで、メンバーは自由に発言ができるのです。
メンバーが自由に伸び伸びと仕事が出来る環境を作るというのが、リーダーの役割です。
個別に違う意識の集まりであるメンバーの意見を受け入れ、目標となるものへの最善策を導きだすことが、リーダーの資質なのです。
その資質を培うには、他者との違いについて認められるよう、自分自身のもつ理念や概念を把握することです。
それには自身の内面に向かって問いかける必要があります。
それが出来ると、変化への恐怖というものも無くなっていきます。
恐怖が無くなれば、率先して変化の先頭に立ち、メンバーに勇気と安心感を与え、先に進むことが出来るのです。そういうリーダーに人はついていくのです。




2015年8月19日水曜日

なにがそうさせている ビジネス編11

「問題という問題」

ビジネスの現場において問題となることは何でしょう。
業績の問題であれば、売上げが上がらない。
はたまた人手不足である、激務である、人間関係がうまくいっていない、などということが挙げられるでしょう。
売上げの問題解決には、これまで述べてきたように、今までの固定観念から抜けだし、変化に対応する方策を実行することにあります。
変化することを恐れ、今までの慣習に囚われているところに問題が発生しているのです。
人手不足や仕事が激務であるというのも、その状況が今までとは違ったものに変化していることへの対応策に問題があると言えます。現状のやりかたが間違っているというのに、それを修正しようとはしないから問題が発生しているのです。
では、人間関係はどうでしょう。
基本的な構造は一緒です。人と対するときにどのような接し方をしているのか、そこに問題があるのです。
接し方が変わらなければ、問題となることは解決しません。

そもそも問題とは、今まで上手くいっていた、もしくは何もなかったところに、不快な状況が生まれたという現象です。不快というのは主観的な事です。人は慣れ親しんだ現状が変化することに不快感を覚えます。
倫理的に良いことだとしても、現状が変わることを躊躇するという心理が働きます。
変わる事への恐れ、慣れ親しんだものを手放す恐れ、未知な状況への不安、こういった恐れと不安が無意識の中に形成されていきます。
売上げが順調に推移している場合は、現状の仕事のやり方で進めていれば問題はないと意識しています。
上手くいっているやり方を継続していくことが成功である、という認知が生まれます。
しかし、実際は細かな環境の変化に対応し、業務を修正していく事で現状の維持ができるのです。
変化しない所に留まろうというのは、楽なことではなく、実は衰退の始まりなのです。

人は年齢を重ねるごとに老いていきます。
肉体の変化と共に、精神的にも変わっていきます。
絶頂の時期にやっていた事に固執するというのは、肉体が若いときのやり方に固執する事と同じです。
こどもの頃の考え方が、大人になっては通用しない事はだれもが理解していることでしょう。
考え方を変えていくからこそ、周りの社会に受け入れられる生き方ができているのです。

つまるところ、この考え方を変化させない所に、問題は生じると言えます。
または、認知の捉え方によって問題となるかどうかが決まる、とも言えます。
先人の成功者達が「ピンチはチャンスである」と言っています。
これは「変化の状況が訪れたことは考え方を変えるべき時である、だから問題ではなく解決の糸口がそこにあると捉えることである」と読み解くことができるわけです。

こうして見ていくと、問題とは人が作りだしているものであることが解ります。
今までとは違った現象を捉えて、それを問題とするかどうかは、その人自身の捉え方であるのです。
ことさら問題意識が強いというのは、現状維持に固執しているという現れであると言えます。
変化することを前提として、あらかじめ対応策を講じておけば、それは問題とはならないはずなのです。

これはビジネス業務に限ったことではありません。
人間関係においても、捉え方という部分で問題は生じています。
自分の環境や精神状態が脅かされる状況を、人は問題と捉えます。
価値観の違いや、意見の相違、侮辱、非難といった行動は、それぞれの持つアイデンティティが違う事で生じるものです。
自分の価値観に従わせようとか、自分の正当性を誇示しようとか、そういう心理が働いていると言えます。
自分自身の考えに固執すればするほど、他人の考えとの間に摩擦が生じるのは当然です。
皆、自分のことは正しいと強固に思っています。しかし本来、正しいも間違っているもありません。考え方が違うとう事実があるだけです。
相手が間違っていると思えば思うほど、それは自分にとっての問題となります。自分の現状を固持しようとして、相手を変えようとするからです。
そうやって自分が変わらないことに固執しているのに、相手は変えようとする。実は相手だってそうやって同じ事をしている、ということに気が付けば、なんと不毛な諍いであるかが解るはずです。

自分自身が創り上げてきた考え方や概念は、無意識に蓄積されてきています。しかもそれは自分にとって、絶対的に正しい事として認知されています。しかし同じように他の人もそうやって自分を形成しているのです。
他を認めないということは、自分自身も認めていないとも言えるのです。
自分と他者との違いが、いったいどこにあるのか。自分が固執する考え方や概念が、なぜ他の人とは違うのかという事を理解すれば、闇雲に自分だけが正しいとは言えない事に気づきます。
違うという事実を受け入れれば、そこには問題は発生しません。自分の領域とはどういうものなのかが理解できれば、相手の主張は、単に自分の持つ概念との違いを表しているだけだからです。
それに対して、どの様に対応するかは自分自身が決めることです。
今まで通り自分を脅かす問題として対応するのか、それは自分の中にあるものとは違う概念として受け止め、変化に対応する自分自身の解決策とするのか、自分で選択するだけです。

つまり、問題は起こっているのではなく、人が作り出しているのです。
問題とする捉え方が違えば、本来そこに問題は存在しないのです。


2015年8月18日火曜日

なにがそうさせている ビジネス編10

「ビジネス・コミュニケーション 2」

お店とお客のコミュニケーションが商売であると言いましたが、コミュニケーションはそこだけではありません。
お店と問屋、問屋と生産者、そうやって繋がりを考えていくと、人が介在する全てにコミュニケーションが存在します。
お店を視点にして外側とするなら、取引業者との関係性においてのコミュニケーションとなります。
この関係性が良好であるかどうかで、商品の確保に影響が出ることでしょう。

本来、コミュニケーションにおいてはお互い対等であるというのが基本です。
立場や状況によってそれぞれの抱える責任の重さに違いはありますが、だからといって、そこに優劣があるという事にはなりません。優劣による交渉にはコミュニケーションとは言えません。
お互いの立場を尊重した上で、対等な人間としての相互理解に基づく行動ができること。
例えば、交渉で一つの決定をした場合、当事者の立場が入れ替わったとしてもその決定で納得できる、というのなら、そこに優劣はなかったものと考えられます。

さて、内側のコミュニケーションに目を向けるとしたら、社内の人間関係という事になります。
実はこの内部の人間関係という部分が、一番の大きな問題を抱えていることでしょう。
職場の雰囲気が悪いとか、上司や部下との折り合いが悪いとか、多くはありませんか。
そんな状態であるなら、やはり生産性の向上は難しいことでしょう。それぞれの人のパフォーマンスが発揮出来ないような職場では、意欲も無くなっていきます。
仕事のシステムは、それが効率よく出来るように組み立てられています。しかしそこに携わっているのは人間です。
人間は機械ではありません。意欲の持ち方によってパフォーマンスは著しく違ってしまいます。
アスリートの世界でも、最終的にはメンタルの持って行き方によって、記録が左右されるのです。
ビジネスも成果を挙げる事を第一とするなら、アスリート同様に人間のパフォーマンスを上げる工夫が必要でしょう。

そこで問題となるのが、コミュニケーションの方法となります。
先に述べたように、コミュニケーションの基本には対等であるという原則があります。
職場での立場というものに、優劣を付けた考え方では、コミュニケーションは成立していないのです。
そこをはき違えてしまってはいけません。
上司であるから偉い、部下は上司の言うことを聞け、というような態度では、まともなコミュニケーションは取れません。
会社での上司とは、経験と知識が新人より豊富であるという立場を言うのであって、人間的に優劣があるという事ではありません。社員教育や指導とは、その先人の経験と知識をいかに早く新人に習得させて、個人のパフォーマンスを上げることが出来るかという、生産性向上に繋がる経営戦略であるはずです。

まだ仕事の出来ない部下を叱責して萎縮させ、やる気を損なうようなことでは、パフォーマンスの向上とはほど遠いことと言えるでしょう。
もちろん、上司の言い分もあるでしょうが、そのような状態になること自体に、基本的なコミュニケーションの取り方にどこか問題があるのかも、と考えてみるべきです。
それは、自分の側にも相手の側にもあるかもしれません。お互いがそこを認める合うことが必要なことです。
独りよがりの精神では、コミュニケーションは成立しません。
相手の立場と考え方を理解し、受け入れる事からコミュニケーションは始まります。

相手を受け入れるには、自分の中にある固定的な価値観を絶対視しないよう、努めなければなりません。
どうしても自分が培ってきた考え方や観念に縛られてしまい、他者を批判、非難してしまいがちになります。
しかし、人間は多様性の生き物です。一人一人考え方も生き方も違うのです。
その大前提を踏まえた上で、自分と他者との違いを受け入れて、共存するコミューンに生きるためには、どう折り合いをつけていきますか、というのがコミュニケーションです。

会社という組織は、決められた目的の為に集まったコミューンであると言えます。その中で、それぞれの立場でどのように目的達成に携わるかが、個人に求められているものです。
新人には仕事というシステムを教えるのではなく、どのような関わり方をしていくかを教えるのが、社員教育や指導なのです。
仕事のやり方だけを教えて、教育や指導とは言えません。それでは作業説明なだけです。
同じ仕事をしたとしても、人それぞれのポテンシャルが違うので、そこにパフォーマンスの差が出るのは当たり前です。しかしそこで優劣を付けてしまっては、格差になってしまいます。
本来なら上司の役割というのは、そのポテンシャルの違いを上手く引き出す事で、適材適所に優れた人材を配置するというものでしょう。
人は、自分の役割をしっかりと理解していれば十分なパフォーマンスを発揮できます。逆に、周りに理解されず、自分の居場所がないと感じている人は、退職していくかもしれません。
活気のある職場というのは、それぞれの人が正しくコミュニケーションが出来ていると言えるでしょう。



2015年8月17日月曜日

なにがそうさせている ビジネス編9

「ビジネス・コミュニケーション」

人は人との繋がりの中で生きています。ビジネスでも、それは変わりません。
必ずそこには人と繋がることでビジネスが成立しています。

最もシンプルに言えば、お店とお客の関係がそうです。お客がいなければ商売は成り立ちません。
売上げを伸ばすということは、つまるところ、お客とのコミュニケーションをより円滑にすることです。
お店側が売れる商品として仕入れるものは、お客の欲求を満たす商品であると思って仕入れるはずです。
それを所有することが、お客にとって何らかの有益(ベネフィット)が得られると考えるからです。
ところが、思ったように売れない。
それはお店側が考えるベネフィットをお客の側では感じていない。もしくは理解していない。ということが挙げられます。
周りの人がみんな持っていて、自分だけ持っていない、という場合は簡単に欲求が生まれます。
人間の特性とでもいいますか、自分だけが除け者になることを恐れる気持ちが根底にあるのでしょうか。
とにかく周りに同調しようとする心理が本能的に働くのでしょう。
その性質を上手く活用しているのが、広告であり宣伝であるわけです。
流行やブームというのも、その流れで発生します。

単純にみんなが持っている、知っているから、自分にも必要であるといった商品が一つであったら、それはビッグヒットとなりましたが、今は多様性が生まれて、必ずしもそれでなければならない、という状況ではなくなりました。
現実には同じような商品は多数存在し、また個人の欲求も人との同調より自身の満足度にシフトしていくことで、より選択肢の多様化が進んでいると言えます。
つまり、お客は与えられるのではなく、自ら商品を選ぶ事が商売の主体となっているということです。

本来、お店側は商品を扱うエキスパートです。
その店が勧める商品であれば、間違いない、と思ってお客が買うのが本来の姿でしょう。
それを突き詰めていけば、ブランドとなります。日本で言えば老舗ですね。
そこには、信頼であり、安心感であり、絆というお客との繋がりがあるわけです。

情報化社会の到来、特にインターネットが普及するにつれ、誰でも膨大な情報を簡単に得る事が出来るようになりました。
今までは足を運べるお店にある商品からしか選択するしかなかったものが、ネット上ではあらゆるものとの比較が出来てしまいます。
いつの間にか消費者の情報量は、お店側の情報と同等かそれ以上になってしまっているのです。
お店側としては、より専門性の高い知識と情報を得なければ、お客のニーズに対応できないという状況が生まれます。
それは、お店のコンセプトとして、お客のターゲットをどこにするかにも繋がります。
今現在、テクノロジーが進化する中で、デジタルディバイドが起こっています。ある年代を堺に、デジタル機器を扱える人と扱えない人といった階層が出来てしまっています。
どちらの階層を主体としてビジネスをするのか、もう一律で対応出来る状況ではなくなっています。
旧態依然のやりかたでは、デジタル世代とのコミュニケーションが稀薄になってしまいます。
しかし、これからはその世代が増えていくのです。
ビジネスとしては、その世代にどう対応していくかの方策がなければ、売上げの確保に繋がらないのは明白です。
逆の世代についても同様に、デジタルを使えないからこそ、社会的に不便さを強いられる立場の人と、どうコミュニケーションを取るかという問題です。
いずれにしても、社会的な変化にビジネスとしてどう対応していくか、それこそが店主であり経営者の仕事です。

時代の流れは、デジタル化が進んでいくことに間違いありません。
たぶんあと20年したら、デジタルを使えない人の方が圧倒的に少なくなることでしょう。
そうなった時、お客とのコミュニケーションの在り方も大幅に変わっているに違いありません。

お店の場合で言えば、今までは店頭商品がお店側のアピールでした。お客は来店してそこから選択しました。
ところが、お客の選択肢が広がったので、お店自身のアピールが必要になります。
ここに来て、お店自身、つまりは店主であり経営者とお客とのコミュニケーションが、事実上の売上げに繋がるということになります。

コンプライアンスという理念がもてはやされていますが、経営者の不祥事で会社の損失が増大するという事件が起こったりしています。これも一種のお客とのコミュニケーションによるものと言えるでしょう。
コミュニケーションとは、相手に自分の事を伝えて、お互いを理解し、そこに信頼を築くということに他なりません。
嘘や、ごまかしがあっては、信頼を築くことは出来ません。

ビジネスというのは、収益があってこそですが、収益のために嘘やごまかしが有るようでは、いずれそれが明るみに出た場合には、取り返しのつかない損害の方が大きくなります。
始めに戻りますが、人は人と繋がっているからこそ、ビジネスが成立します。
お店は商品(サービス)を提供し、消費者はそれに見合った対価を支払い、それぞれが満足感を得られることが、ビジネスの基本的な仕組みです。
そこに、お互いを尊重し分かち合うという精神を持つ事で、より満足感を味わえる事が出来るのです。
どちらも相手の事を思いやるという精神が欠けたとき、コンプライアンスや、モンスターペアレントという問題が深刻化していくのでしょう。



2015年8月10日月曜日

なにがそうさせている ビジネス編8

「プラス思考の落とし穴」

「脳内革命」以後、プラス思考やポジティブシンキングがもてはやされていきました。
精神論や根性論のような気持ち優先の考え方に変わる、思考のコントロールという理論的な考え方が注目されるようになりました。
プラス思考やポジティブシンキングのような前向きな考え方というのは、気持ちが高揚していくので、行動しやすい状態を作ります。
行動を起こせば、必ず何かしらの変化が現れます。
その意味では、停滞した現状から抜け出す方法として間違いではないでしょう。
しかし、変化というのは、捉え方によって良い方向と悪い方向の両側面を持っていると言えます。
全てが良い方になればいいのですが、そういうわけにはいきません。
ところが、過度のプラス思考になると、良い方しか見ないという偏った意識に囚われる危険があります。
その場合、変化によって生じた悪い面を、無視するとか、上手く行かなかったことは、無かった事にする、という誤った選択をしてしまう可能性があるのです。

確かに、プラス思考やポジティブシンキングが有効であるとは言えますが、ただ闇雲に良いことだけ考えればいいんだ、という理解をしてしまう危険性があります。悪い事が起こっても気にしない、失敗しても次がある、こう考えると前向きに聞こえますが、実際はただの慰めでしかありません。
問題は起こっているのに、解決に繋がっていない、または原因究明を疎かにする。
常にそういった思考で本質の先送りをしてしまうと、いずれ大きな問題となってしまうのです。
その時に初めて問題と直面して、自分自身の行いを責めてしまうことになると、こころに大きな傷を作ってしまいます。
気持ちの落ち込みが激しいと、うつの症状になる可能性も出てきます。
前向きな姿勢だからといって、そういった負の萌芽を無視したりしていないか注意しなければなりません。

プラス思考という言葉からも、プラスの方向だけ考えるというふうに取られがちですが、私が考えるには、根拠のないマイナス思考に陥らないことを指していると思います。不毛なマイナス思考をプラス思考で相殺するという感じでしょうか。
何か行動を起こす前に慎重になるのは当然のことです。
そもそも、一分一秒先もどうなるか解らないというのが、この世の中の仕組みです。
人は行動するとき、ある程度の予想の元に行動していると言えます。一度行った行為は経験済みですので、安心して行動できます。しかし、未経験の事を行う場合は、予想される結果をあれこれシミュレーションしなければなりません。
予想する結果に大きなリスクが伴う場合は、慎重にならざるを得ません。
自分に降り懸かるリスクが大きいほど、行動は起こせなくなります。

問題となるのは、そのリスクを過大評価してしまう場合にあります。
先の解らない行動を取るということには、恐怖心が働きます。その恐怖心に囚われると、現実的には起こる可能性の低いはずの状況さえも思い描いてしまい、余計に行動出来なくなっていきます。
これをやって失敗したら、会社をクビになってしまうのではないか、など想定される最悪の事ばかり考えてしまったり、自分が悪者にされてしまうんじゃないか、といった被害妄想に陥ったり。
精神的にその傾向が強くなって行った場合は、不安障害といった症状に至る可能性があります。

時間の中で生きている限り、未来はどうなるか解らないのが本質です。
それでも生物は生きていけるように出来ています。明日の不安ばかりを見ていたら絶望しかないでしょう。人間そこはうまいこと出来ているもので、先の見えない現実はあまり気にしないように作られているようです。
ただし、考えるという万能な知能を手に入れたことによって、不安や恐怖も自分で作り出すことが出来るようになってしまいました。
マイナス思考は不安感や恐怖という思考の暴走です。
普通の状態や客観的な判断が出来るようなら、考えなくてもよいことなのです。
そういう暴走した思考をコントロールする、といった意識が求められるものです。

そういう意味では、過度なプラス思考というのも躁思考の暴走と言えます。
極端な例で言えば、ギャンブルに投資するようなものです。
プラス思考も、マイナス思考も、適切な範囲で活用するのであれば有効な方法です。プラスとマイナスの軸がどちらかに振れすぎることが問題なのです。
思考においても、自分でそれをコントロールしてバランスのよい考え方を身につけるというのが本来の意識改革であると思います。

万物はバランスの中で成り立っています。プラスの時もあればマイナスの時もあり、どちらかが永遠に継続することはありません。
ビジネスにおいても、成長期が頂点になれば減衰が始まります。これは万物の法則です。
衰退に逆らうのではなく、違う物に変化するということが求められていることです。


2015年8月9日日曜日

なにがそうさせている ビジネス編7

「なぜできないのか」

そもそも、これが過去10年以上に渡って考えてきたテーマの一つです。
頭では解っている。理屈では理解している。それなのに、いざやろうとしても、出来ない。続かない。

書店をしていた時の1995年ごろから、分類わけされた自己啓発の棚からが本が溢れていきました。
まだ今ほど本の分類が細分化されていなかったので、自己啓発という棚もそれほどスペースがなく、内容も大雑把なくくりとしてある感じでした。
もう一つ、ビジネス書という分類があり、こちらも明確なくくりがないので、何となく仕事に関わる本という感じで選別していました。
古くからカーネギーの「人を動かす」や松下幸之助の「道をひらく」などが、自己啓発の棚に入っていたりしました。

当初は、個人の成長や自己改革を促すのに役立つ本という捉え方で、自己啓発本というくくりにしていました。ビジネス書は直接仕事に関わるノウハウであったり、技術的な要素のあるものという捉え方で分類しました。
ところが、だんだんとその境界が曖昧になっていきました。
いわゆる、成功本の類いがぞくぞくと出始めた時からではないかと思います。
仕事の成功と自己改革が結びついていくことで、どちらの分類にも当てはまる本が続出します。ビジネスにおける成功者達の手記も数多く出版されていきました。そういう本を読んでいくうちに、どうやら誰もが同じ事を言っているように感じられてきました。

成功者たちは、自分が成功するまでのくだりを詳細に書いてくれています。それを読むと、確かになるほど、と頷けることばかりが書いてあります。
しかしそこで思った事はありませんか?
「その人だから出来たんじゃないの?」
「それはよく分かるけど、自分には出来ない」
「なんかそんなに運良くいくなんて、有り得ない」
そんなふうに考えたことはないですか。
そして「これは自分には合わない。でも自分に合った事例もあるんじゃないか」とまた次の本に手を出す。

始めの頃は自分もそんな気分になったことがありました。
人それぞれ環境も違うし、性格も違うんだから、同じ事は出来ないよ。そう思いました。
でも、これは当たり前ですよね。
同じ事をしようとしても出来るわけがない。それなのに、その人がやっていた事を真似しようとしたのですから、出来なくて当然です。
ノウハウや技術を真似ることは出来ます。しかし、本質はそこではありません。
成功者達が共通して言っていたのは、意識の持ち方だったのです。

中小企業診断士による販売促進のセミナーなどでは、さまざまな成功事例や、取り組みのアイデアなどの提案がされたりもします。正直、それらの事は沢山ある本の中に書かれていることだったりします。それに関しては知識では解っていることで、それよりも自分の店が来月の売上げをアップさせるための具体策は何なのか、商店主が知りたいのはそこです。
しかし、そんな特効薬みたいな方法はありません。むしろ、ここに至るまでにあったであろう、変化のサインを見逃したか、無視した結果が現状を招いたということに気付くべきです。
病気と同じで、病状が悪化してしまったら、劇薬に頼るか、手術するか、いずれにせよ痛みが伴うような変革を迫られることになってしまいます。
そうなってから、変わろうとするから、簡単ではなくなってしまうのです。

知識を得ることは大切です。多くの知識がなければ新たな発想も生まれてこないでしょう。ですが、再三繰り返してきたように、知識を得たから出来るというわけでもありません。それなのに、どこかに上手く行く方法があるのではないか、まだ知らないテクニックがあるのではないか、と情報をかき集めていけば、答えが見つかると思ってしまうのです。

始めにそこに疑問を持ったのが、やはり本を売っていた時のこと。
1995年に大ベストセラーとなって、一大ブームを引き起こした「脳内革命」という本が出版されました。
店頭に並べると、みるみるうちに売れていきます。
「脳から出るホルモンが生き方を変える」
脳内物質やプラス思考という言葉が流行となっていきました。
410万部も売上げ、続いて発売された「脳内革命2」も100万部を超えた売れ行きを記録しました。

これだけ売れたということは、本を読んで生き方の変わった人はさぞ大勢いることだろう。
そう考えても不思議ではないはずです。それなのに、世の中が変わったという気配は全く感じられません。
この後も生き方を変えるための本が数多く出版されていきます。
そして同様に売れていくわけです。
商店街の一角にあった当店では、顧客の大半は固定客になります。ということは「脳内革命」を買った人もまた次の本を買っている、ということになります。
つまり、本を読んだ人は何も変わっていないということです。
変わったのなら、似たような内容の本を買う必要はないはずです。それなのにまたベストセラーが生まれていくとは、どういうことなんだろう、と考えた時に、人は知識を得たから変わるわけではない、という結論に至ったのです。

同様なことは、ダイエット本にも言えました。
毎年さまざまなダイエット方法の本が出版されています。そしてそのどれもが売れていくわけです。前述のように、固定客が主ですから、買いそうな人には、いいかげん行き渡っていると考えても良いはずです。
それなのに、また新しいダイエット方法と謳った本が出ると、またまた同じぐらい売れていく。
去年もそれだけ売れたのに、今年になってもまた売れていく。
これはどう考えても、だれもダイエットしていない、としか考えられないじゃないですか。

結論が確信になって、始めの「なぜできないのか」を追求することになります。
そのためには「こころの仕組み」を知る必要があったのです。

2015年8月8日土曜日

なにがそうさせている ビジネス編6

「こころの仕組み」

意識が変わる程の極限状態では、こころの中で何が起こっているのでしょう。
それが解れば、なにもそこまで追い込まれなくても、人は変われるはずです。

それを知るには、こころの癖というものを理解しなければなりません。
先にも触れましたが、こころは楽な方を選ぶ性質があります。習慣化されたものを繰り返す方が楽であると判断して行動します。
これは、生物の本能的働きとしては正しい事です。生きる為に食料を確保しなければならない時、簡単に食べ物が手に入る場所を見つけたら、そこにいる方が楽に決まっています。
食べるものが無くなったら、次の場所に移動する。動物はそうやって生きています。
人間は生活の場を築き、そこに留まって生きる為に高度な文明を発展させてきました。
知能の発達は、人間の生活を形成するあらゆるものを創り出し、より複雑な生活環境を生きていく為の知恵として身につけてきました。
複雑な作業に集中して考えるには、簡単な作業は自動化されていきます。
このシステムを発達させたからこそ、人間の持つ無限の創造力が形成されました。

機械の自動化はとても便利なものです。
人間もその便利さを手に入れて、自動化のプログラムを思考に取り入れました。
一度覚えたものは、簡単に再現できるよう自動化されます。
繰り返し行動するパターンは、考えずに動けるようになり、思考の自動化が作られていきます。
自動化されたものは、本能の働きにより、それは楽であり正しい事である、と認識されます。

しかし、ここに落とし穴が潜んでいるのです。一度思考でプログラムされた自動化は、なかなか変える事ができません。そもそも考えずに行動するというプログラムなのでで、それ自体を考えるというプログラムが存在しない、もしくはあっても働かない状態にあるわけです。
まず、それが自動思考であることを、認識しなければなりません。次に自動思考で行っていたプログラムを、新しいプログラムで書き換えないといけません。
これが認知の変換です。

人は生まれた時の周りの環境から情報を得て、生存していくためのノウハウを蓄積していきます。その方法は人それぞれであり、それがその人の人格形成に大きく影響を与えていきます。
両親の様子を観察し、取り入れる部分は取り入れ、反面教師となる部分はそれをしない、といったようにして自分というものを作っていきます。
様々な考え方の中で、自分自身が取り入れてきたものが、やがて自分の考えとして定着します。
しかし、そのようにして形成した自分は、数々の考え方のある中の一部を取り込んでいるに過ぎません。
そして自分にとって都合の良い部分だけを集めて、それをさらに自動化することで、意識が成り立っているのです。

自分が形成してきたものは、自分にとって常に正しい判断をしてきた、というのが人間の性です。
それが間違っているわけではありません。ただそれだけが正しいとは言えないということです。
人は誰でも自分を正しいと思っています。なので、人の数だけ正しいが存在することになります。
自分が正しいに固執すると、諍いの元となってしまいます。
相手を否定することになってしまうからです。
人は否定される事を嫌います。否定されると、怒るか、落ち込むか、まともではいられなくなります。
しかし、本来はどちらも間違っていない、という事に気付けば争いは無用になるはずなのです。

自分自身が積み上げてきた考え方を変えるというのは、自己否定に繋がってしまいます。
否定するということは、恐いことなのです。しかも、それ自体が無意識の中にプログラムされているのです。
つまり、考えを変えるということは、いけない事(恐怖だから)という自動化が働いているのです。

これが、簡単に意識を変えられないメカニズムです。
やっかいなのが、恐怖というのは理性ではなく、感情であることです。
意識によって作られた思考のプログラムは、意識によって書き換えることは可能です。
この状態は、「頭ではわかってるんだけどなぁ」とか「理解はしている」という言い方で表現されます。
よく聞く話ではありませんか?
理性では納得しているはずなのに、行動できない。

人間が行動するには、感情の作用が欠かせません。この場合、恐怖という感情が根底にあるという事に気付いていないのです。恐怖を感じると、本能的に緊張感が高まります。動けなくなるというのもそのせいです。それが更に極限の生死に関わる状態に至ったとき、逃走闘争本能によって、逃げるか闘うかの行動を起こします。

解っていると言いながら行動出来ないというのは、そこに恐怖があるからなのです。

今私達が生活している社会では、そんな生存の危機に直面するようなことはありません。それをしたからといって命に関わることなどないのです。それでも変化に対する恐怖というのが、無意識の根底にある限り、新たな行動に移るのを阻んでいるのです。
意識を変える、認知を変えるということは、無意識にある恐怖を認識し、実はそこには恐怖など無いということに気付くことなのです。
変わることの恐怖がなくなれば、意識は直ぐに変えられます。むしろ理性が働いて、変わるべき正しい判断が出来るはずです。

このような心理のメカニズムを知る事で、自分自身が囚われている負の感情などを解放させていけば、より自由な生活への取り組みが得られるようになります。

2015年8月7日金曜日

なにがそうさせている ビジネス編5

「意識が変われば、人は変われる」

同じ所に留まるか、勇気を持って未知の領域に踏み込むか。
色々な場面で、こういう選択を迫られる状況はあると思います。
そういった場合、迷わず先に進む道を選んだ方が上手く行くのです。
その状況は、変化を促す為に訪れた、と捉えるべきです。留まることは、変化しようとするエネルギーに逆のバイアスを掛けることを意味します。そうなると、何をやっても上手く行かない、物事が進まない、という状況が生まれます。

一方で、変化の波に乗った時は、どんどん先に進みます。むしろ上手く行くことが向こうからやって来る、という感覚になることでしょう。自分の意識が変化する方にシフトしただけで、自分にとっての状況は好転します。
その際、変化を受け入れていく事が重要です。怖がって躊躇したりすると、その分進み方は停滞します。
今までの延長では、じわじわとマイナスになっていくだけで、そこを打開するには振り幅を大きくしなければなりません。
振り子を思い浮かべると分かりやすいでしょう。
始めは大きく振れていた振り子でも、何もしなければ振り幅は小さくなっていきます。
そして振り子は今にも止まりそうです。止まりそうだからちょっと突く。でも力が弱いからまた止まりそうになる。
現状というのは、これを繰り返している状態です。
振り子を動かし続けるには、常に力を掛けていなければなりません。しかし一見、手を休めても振り子は自然に振れていると思ってしまいます。まあ少し休んでもいいだろう、という慢心が慣れになってしまうと、気付いた時には振り子は止まりそうになっているのです。同じ力を掛けても、前のように大きくは振れてくれません。
再び大きな振り幅を取り戻すには、始めに持ち上げた位の力が必要になります。
つまり、お店を開いた時のようなエネルギーが必要だということです。
実際、物理的にお店を変えるのは難しいことですが、意識的にはそのぐらいの意気込みが必要なんだということです。

変化を受け入れるという事は、意識の転換でもあります。物理的に物事を変えるのは時間や金銭といった労力が必要になります。
しかし、意識を変えるのに、労力はいりません。今までと違った考えを受け入れるだけです。
あなたが見ていた左側の世界から右側の世界を見れば良いだけです。
ところが、ほとんどの人がそれを出来ません。なにがそれを出来なくさせているのでしょう。

この発想の転換を習得出来ている人には、ある共通点があります。それに気付いたあと、それぞれの人が自分の分野で何かを成し遂げていたりします。
その共通点とは、ほとんどの人が極限状態を経験している、ということです。
もちろん、その人にとっての極限状態という意味ですので、皆が命の危機にさらされるような経験をした、というわけではありませんが、人生においてどん底に沈んだ、とか生きる気力を失ったとか、そういう状況から這い上がったという経験者です。

発想の転換の例として、歴史上の話を取り上げてみましょう。
時代は戦国時代1600年。天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦です。

この時、西軍には島津義弘が率いる島津軍1500人が参戦していました。
知っての通り、西軍は惨敗し敗走します。その時島津軍の周りは東軍に取り囲まれてしまいます。
退却するにも逃げようがなくなったのです。
ここで島津軍は歴史に残る行動を起こします。
島津の退き口と呼ばれる、前に向かって敵中突破するという前代未聞の戦法です。
退却というのは後ろに退くことですが、この時後ろ側は東軍の追撃で一杯です。唯一逃げられる道は、東軍本陣の前を突っ切り、その向こう側にある街道へ抜けていくしかなかったのです。
そうはいっても、敵の真正面を突き進もうというのですから、どれだけの犠牲が出るかもわかりません。しかもたった1500人で、万もの大軍の中を突っ切ろうというのです。
島津兵は殿様一人を守る為に、捨て身の戦いをします。死を覚悟して闘う兵に徳川の兵は怖じ気づいたことでしょう。その時点で勝敗は決してますから、そんな手負いの兵に立ち向かって命を落とすのはためらわれたと思います。
そんな島津軍の勢いで、奇跡的に島津義弘は助かります。生き残ったのは数十人であったともいいます。

歴史のIFを言っても仕方がありませんが、その時、普通に退却したら島津軍は全滅、島津義弘も捉えられ斬首となったかもしれません。後ろに退いて、じわじわと戦力を減らされていくなら、今の戦力で一点突破するという決断が、島津藩滅亡の危機を救ったと言えるでしょう。
この後の歴史で島津藩が重要な位置を占めるのは、この決断があったからこそです。徳川としては、腫れ物に触るような意識を植え付けられたことでしょう。それが幕末にまで繋がり、徳川幕府を終結させる立場にまでなっていくというのは、なんとも歴史の不思議さを感じさせられます。

島津義弘は戦上手として知られた人でした。それでも1500人という寡勢で普通に闘っていたらどうなっていたか分かりません。
戦況を見つつ、終盤まで闘わなかったことで、逆に取り残されるという状況が生まれました。
絶体絶命の危機が訪れたことで、今までにない発想も出てきたのでしょう。

つまり、人間はそういう八方塞がりの状況にまでならないと、なかなか意識の転換は出来ないものなのでしょう。
しかし、誰もがあえてそんな危機的状況を望んでそうなった訳ではありません。
結果として意識改革が起こったということです。
それは、どうしようもなくなった、という状況を受け入れたからこそ、全く別の回路が開いたと言えます。
今までの考え方が通用しない、という事実を受け入れた時、これまで見ていた景色とは違う景色もある事に気付きます。

本当は、そんな極限状態にならなくても、気付けばいいだけなんです。
ところが、そういう気付きについての考え方や取り組みかたを教わることがありません。
気付けないのは、こころの仕組みや反応についての知識が足りていないのです。

2015年8月6日木曜日

なにがそうさせている ビジネス編4

「店は人が創っている」

売っているのは人間の魅力である、と言いましたが、これは単純に人間性が良ければ、という話ではありません。
それならば、いい人が集まれば上手くいくじゃないかということになってしまいます。
もちろん、職場の雰囲気が良好になれば、作業効率も生産性も上がることでしょう。

しかし、問題となるのはそこではなく、仕事のシステム上に不具合がないかを洗い出すことから始めなければなりません。つまり、仕事のやり方、慣習や決まり事の中に、見落としているものはないか、ということです。
仕事を円滑に進めるためには、手順が必要です。やみくもに思い付いた事から作業するということはありません。
どこの職場でも朝から決められた手順で仕事を進めていくはずです。

さて、ではその手順を作ったのは誰でしょう。
それは、まぎれもなく人が作ったはずです。
また、その職場にあるルールなども、誰かが作ったものです。
そういう所に、疑問を感じたことはありませんか?
それとも、これは決まりだから何も考えずにそのとおりやっていればいいんだ、と考えますか?
または、ルールにないから、そこはやらなくてもいい、と思っていたりしますか?

この手順やルールをどう作るかで、仕事の流れが変わっていきます。
例えば、「今日から荷物の入った段ポールは通路に置かない」とルールを決めれば、店内の雰囲気は確実に変わります。品出しの途中だから、しばらく置いといてもいいだろう、なんて思ってそのままにしてしまったり。でもそれはお客さんにとっては邪魔なだけです。自分たちの作業がやりやすいからといって、お客さんに不都合を与えるようなことをしていては、売上げには繋がらないのです。

この手順やルールで、本当にお客さんの為になっているか、言い換えればそれをやっていることがお客さんの購買意欲に繋がるものなのかどうか、それを精査する必要があると言えます。
手順やルールというのは、一度作ってしまうと、なかなか変えられません。しかも長年それを継続していると、それが当たり前となって、変えることはいけないことのように思われたりします。
本来、何かの目的をもってそのルールは決められたはずなのに、ルール自体を守ることが主体となって、本来の目的からはズレていることに意識が向かない。そういう例はいくつもあります。

人間は本能的に、同じ事を繰り返す方が楽であるといった意識を持っています。
同じ状態であることは安定している事なので、それは自分にとって心地よい状態であるからです。
しかし、万物は常に変化しています。一瞬たりとも同じ状態であることはないのです。
ほんの些細なことから、大きなことまで、人は変化の中で生きています。本当は日々その変化に対応しながら生きているはずなのに、そこを意識しようとはしません。
ひとつには、変化をすることを恐れる気持ちがあるからです。変わるということは、今までと違うこと、つまり分からないことが起こる、と捉えます。分からないから恐い、しかし変化していくのは必然です。

必要なのは変わる勇気を持つことです。
変化に対応し、変わる事を躊躇しない気持ちと行動力。
その意識を持ったなら、お店は変わります。それは人が変わったからです。

今までやってきたことを止めるというのは、なかなか出来ません。
それが成功体験であれば、余計に難しいことでしょう。
「こうやって上手くいってきたのだから、まだ大丈夫だ」
そんな気持ちに支配され、なにも出来ずに時間がだけが経ってしまうのです。

売上げが低迷して、今の状況を仮にゼロとしたとします。
何もしなければ、ゼロのままです。いや、むしろ変化するのが自然であるなら、マイナスになっていくと言えます。
実は、常に何らかの行動をしていることでゼロベースが保てているのです。

川の上流に向かって船を漕いでいるとイメージしてみてください。
流れが緩やかなときは、今の力で漕いでいても船は上流に向かって進んでいきます。
ところが、流れが急になってきたら、同じ力では前に進めません。そこに留まることでも大変になります。
それでも上流に進むには、どうしたらよいか。
もっと大きな力で船を漕ぐためエンジンを取り付ける、はたまた、一旦岸に向かって進み、陸路を遡る。
いずれにしても、今までのやり方では先に進めないということを自覚しないといけないのです。
このような危機的状況になったときは、特に大きな変化が求められます。
だから余計に変わることが難しいと感じてしまいます。
本当なら、そうなる前の兆候が現れた時点で、次の行動に移っていれば、それほど苦労することなく変化に対応できたはずなのです。
その時に「まあ何とかなるだろう」とか「まだ大丈夫」といった今までの慣習を優先させてしまうと、より困難な決断を迫られる状況になってしまいます。
そしてその決断が出来ずにいると、いずれ疲れ切ってしまい船は流されてしまうことになります。

こういった事は、ビジネスに限ったことではありません。
私生活の中で、似たような状況はいくらでもあるはずです。
そんなときに、自分ははたしてどの様な行動をしているのか、自己確認しなければなりません。

周りの変化に対応し、今までのやり方を恐れずに変えていく力を持つ人になる。
そういう資質を持った人間に、人は魅力を感じるのです。
過去にこだわり、先を見ないような人は誰も支持しません。

見えない未来に目を向け、新しいものを作り出していく、そういう人が作ったお店ならば、お客からも魅力的に映るはずなのです。


2015年8月5日水曜日

なにがそうさせている ビジネス編3

「ものを売らない」としたら何を売るのか。

もちろん、商売ですから、ものを売っているわけですが、販売促進についてディスカッションする中で、どうやったら売れるのかという発想から考えると、値段とか、商品のアピールとか、付加価値の追加とか、ものが主体でのアイデアが出てきます。
もちろん、そこは重要ですが、単に安くすれば売れるとか、宣伝すれば売れるとかでは、今までとそれ程変わるものではないはずです。

ところで、本を売るという事では、他の小売業と決定的に違う部分があります。
それは、本の値段は販売店では決められないということです。
本には値段が印字されています。これは日本全国どこで買ってもその値段です。
本来物販というのは、仕入れ値と販売額の差額によって利益を出します。
例えば、大量注文すればその分単価が安く仕入れられるから、販売価格も1割引で店頭に出せる、という事が出来ます。
しかし、本の場合は、仕入れ価格も販売価格も販売価格維持制度という決まりによって固定されています。勝手に安売りとかは出来ません。

確かに物販は商品買い取りが基本ですから、そのリスクに見合った融通性があるのでしょうが、本の場合は委託販売制度ですので、そのリスク軽減分利益率は低くなるという事です。
しかしそのおかげで、本は北海道であろうが沖縄であろうが、輸送経費を考える事無く価格は固定であり、消費者は平等な価格で本を手に入れることが出来るという訳です。

さて、となると、本の安売りという販売促進は書店では出来ない、というのが大前提になります。更に、物販では他店にないものを仕入れる事で、差別化を図るという手段があります。その店でしか扱ってないもの、というのはお店の個性ともなります。
しかし、書店の場合は他店にあるものは基本的に仕入れることはできます。品揃えを個性的にして差別化を図るという事は出来ますが、売れていない本を大量仕入れしたからといって、それが売れるわけではありません。現実的に利益を出すには、それよりも売れている本を仕入れて、売れるうちに売り切るしかないのです。
結局、どこの書店でも置いてある本は殆ど一緒とならざるを得ないのです。

ここまで考えた時、売っているものも同じ、値段も変わらない、としたら、なぜわざわざその店で買う必要があるのだろうか?
商品自体に全く差はない、としたらお客がそれを買う心理に商品は関係ない。
だったら、ものを売ってるのではない、としたら何を売ってるのだ?

この発想が浮かんでから、売るという見方が一変しました。

商品に注目しないとなると、買う店と買わない店の違いとは何だろう。
お客目線で見たとき、入りやすい店、そうじゃない店は、何が違うのか。
自分がものを買うときの意識には、何があったのだろうか。
もちろん、今までもそういう発想はあったと言えますが、自身の店を見るときにはどうしても売る側の視点の方が優位に立ってしまいがちです。
これはどの店主と話をしているときでも、売るという意識から発想しているなということが伺えます。なかなか自分が一消費者としてそれを買うという感覚にはなり難いようです。

だからこそ、今そこにある「ものは売らない」と決めつけた時に、やっと買う側の視点に立てたという気がしたのです。

小さな店の店主ともなると、店番も含めて店舗に張り付いていることが多くなります。
なかなか外に出かけてゆっくり買いものをするという暇もありません。しかも自分と同じ業種の店でものを買うというのは、なんとなく抵抗があったりします。
本屋なのに、他の本屋で買うというのは、気が引ける訳ですが、これ以降は、あえてそれを実行しました。本に限らず、何かものを買うときには、何が自分に買う気を起こさせたのか、その店の雰囲気や自分の気持ちの変化を観察するようになりました。

難しいのは、良いところを探すということです。感じがいい、とか雰囲気がいい、とかは具体的に何処、と言えない部分にあったりします。明確にならない所は真似しようにも出来ないとなってしまいます。
反面、悪いところというのは直ぐ目につきます。
荷物の箱が通路に置いたままになっていたり、商品の並びが見にくかったり、とりわけ、店員の雰囲気というのは敏感に感じてしまうものです。

誰もが、他人のあら探しというのは得意でしょう。悪いところは直ぐに目についてしまいます。人間の特性と言っても良いでしょう。
お客目線になって気になるところを探していくと、いくらでも出てきます。特に売る側の都合でやっていることなど、お客の立場からは何の得も感じられません。
始めに手を付けなければならないのは、どれだけマイナス印象の要素が自分の店にあるのかに気付くことでした。

お店の都合でやってることに、問題はないか。もしあったとしても、それをどう解消してお客の利便性を高める方向に持って行くか。ものを売る前にやるべき事は沢山あったのです。
売り方を変えることより、自分たちが変わるという事が必要なのです。

まずは、お客が感じるであろう嫌なことを減らしていく。それがあって初めて良さも引き立つということです。そして一番問題となるであろうことは、人間の対応でしょう。
お客に与える印象で最大のものは、その店にいる人間の対応に尽きると思います。
いくら見栄えのよい店舗でも、店員の対応によっては魅力が半減するという場合があることでしょう。そう考えると、お店の魅力とはそこに働く人間の資質によって、大きく左右されるということが言えると思います。

突き詰めていくと、お店で売っているものとは、人の魅力なのではないでしょうか。


2015年8月4日火曜日

なにがそうさせている ビジネス編2

高度経済成長の頃は、ものを作ればどんどん売れた時代でした。
今ではどこの家庭にも当たり前にある、テレビ、冷蔵庫、洗濯機などは、昭和30年代には家電三種の神器と言われて、とにかく所有することがステイタスだったわけです。

この時代、ものを持つことは生活が便利になっていくことでした。また、便利になることは、豊かであるという意識が根付いていきました。
まず、一般家庭にはものが行き渡っていきます。ほぼ誰もが同程度の水準でものを所有できる状況が訪れます。昭和40年代にはテレビのない家の方が珍しくなっていたことでしょう。
次に目指す所は、生活の豊かさです。豊かさは利便性の追求でもあったことで、製品は、より高性能を目指して開発が促されます。
他社より少しでも優れたものを作るのが、売れるもの作りのベースとなります。

所有の欲求と高性能への欲求が、昭和の時代を通じて、ものを買うお客の心理に根ざしていたはずです。他の人より沢山持っている、他の人より良いものを持っている。そこに自分自身の価値も投影していたところがあると思います。
昭和世代の人には、良いものへのこだわりと、ものを持っている事へのこだわりが、こころの奥にあるのではないでしょうか。
ものを捨てられないという気持ちも、こういった心理が働いていると思います。

平成の時代が訪れると、もう一般的に必要とされるものは、どこの家庭にも十分行き渡っていました。しかもどの製品も実に高性能です。製品そのものの出来に優劣を付ける部分は殆どありません。
この頃から、企業は製品そのものの良さを伝えるのではなく、その製品を使うことで得られる満足感を製品価値として謳うようになります。

それまでは、持っていなかったから買う、というのが購買心理でしたが、もう持っているものを買い換える、もしくは持っているのに買い足す、という状況になっていきます。
所有欲と性能価値だけでは、購買意欲の刺激には繋がらなくなったのです。

個人の欲求は、自分の満足感を満たすものの価値と捉えるようになりました。
そうなると、満足感という価値観は人それぞれという事になります。
ここに、価値の多様性が生まれてきました。

全ての分野において、昔のようなビックヒットが生まれないのは、この欲求の多様性によるものだと思います。
平成の年代の人には、あまり所有欲がないと聞きます。生まれた時には全てのものがあったから、特に必要とするものはないという感覚なのでしょう。ものを持つことよりも自分が満足することの方が優先であると考えるようです。

バブル後の不景気からは、よりこの個人の満足度が購買欲求の決め手となっていったように思います。バブルに浮かれて簡単にものを買えるという感覚から突然に緊縮経済になった感じで、買い控えが起こります。しかし本来買う必要のないものまで買っていたのがバブルの時代だったのです。
冷静に考えたら、特に必要なものはない、ということに気付いたのです。
そのため、それまでの販売感覚では商品が売れない状態になりました。

そこからが、どうしたら売れるかと中小企業が頭を悩ませることになったのです。

あるとき、商店街の集まりで、専門家を交えて何グループかに分けて販売促進の取り組みを勉強し、各自発表するという企画がありました。
各商店街で一つのグループを作り、それぞれの取り組みについて、後日プレゼンテーションを行い、成果を競うというものでした。
結局私が、本番でプレゼン発表をするという大役を担うことになるのですが、まずは15人程度でディスカッションが行われました。自分たちのグループではS・W・0・T分析という手法を使い、各店の分析を元に販売対策を考えるという流れに落ち着きました。

S・W・0・T分析とは、各自の強み (Strengths)、弱み (Weaknesses)、機会(Opportunities)、脅威 (Threats) の4つのカテゴリーで要因分析し、経営戦略を練る手法として割とポピュラーなものです。

自分の店に当てはめて分析し、それぞれの要因を考えていると、ある考えが浮かんできました。
「そもそも、ものを売らない、と考えたらどうなんだろう?」
この考えが、ひとつのキーワードして強くこころに残っていくものとなったのです。

2015年8月3日月曜日

なにがそうさせている ビジネス編1

30代に入ってから17年あまり、書店業を営んできました。それまでも、飲食店や引っ越し業のバイト、印刷業、TV局デザイン部勤務など色々な仕事をしてきましたが、書店を通じて培われた情報や知識が、今の自分には大きな収穫となっています。
書店という商売を通じて、世の中のカラクリを勉強してきたように思います。

もちろん、商売というビジネスですから、お金を稼ぐ手段として、ものを売らなければなりません。
書店の場合は本を売るということになります。
商売をする人が常に考えていることは「どうすれば売れるのか」に尽きます。
本当に四六時中、それを考えていたものです。

そもそも、ものが売れるとは、どういうことなのか?
お客がその商品を買うのは、なぜなのか?

そんな疑問が頭の中でいつもぐるぐると回っていました。どこかに答えはないものか。
都合良く、というかおかげさまで、書店という恰好の情報源が目の前にあったので、そういう関係の本を片っ端から目を通していきました。いわゆる、ビジネスにおける成功本の類いや、成功者の自伝、体験談、などがそうです。

1990年に入った頃でしょうか。出版業界も右肩上がりの頃で、景気のいい話の本などがぞくぞく出版されたように思います。
その頃は、メディアで話題になれば直ぐに売れていきました。とにかく話題になっている本を仕入れる事が、儲けるための必要不可欠な業務となります。その為には、あらゆる方向にアンテナを張り、いち早く情報を仕入れなければなりません。
家に帰ったら、TVを見ていても本の話題が出ていないか、電車の中吊り広告に新刊の話題はないか、新聞の書評は何が載ってるか、目に留まるもの全てに注意を払っていました。

TVの影響は絶大で、特にお昼ごろのワイドショーなどには悩まされました。今でもそうでしょうが、料理のレシピ本とか、ダイエットの本とか、中でも健康に関する本などは、放送された直後にお客さんがお店に買いに来ることもありました。
「お昼にTVでやってたんだけど、なんだか身体にいいってことが書いてあるんだって。その本ない?」
そう言われても、こっちはその時間店にいるんだからTVは見てないのに。
しかも、その番組中のひとつのコーナーでちょっと取り上げただけだったりするので、お客さんもよく分かってないから、本のタイトルも出版社も分からない訳です。

ちなみに、本を探す手がかりの一番は、まず発行されている出版社が分かること。次にタイトル、作者かな。

そうは言っても、お客さんで出版社をハッキリ覚えてきてくれるのは稀で、タイトルも作者もうろ覚えで、なんとなくこんな内容で、という場合がほとんどだったりしますね。

しかし、こちらもプロ。とくかく意地でも目当ての本を探し出すのです。
僅かな手がかりから、一冊の本にたどり着く。まるで探偵のような・・・言い過ぎ?

先のTVでやってた、という話から「何チャンネルの何時からの番組でした?」と聞き込みを開始。新聞やTVガイドの番組欄をチェックして、その番組を見つけたら、TV局に電話します。
その番組名を伝えて、番組担当の人に繋いでもらい、コーナー中の説明をして、さらに受け持ちのディレクターさんに変わってもらって、ようやく紹介した本にたどり着きます。
それから、出版社に電話をして確認すると、まだ発売前だったりすることもしばしば。

話がそれましたが、そんなふうに、TVやラジオ、新聞など、メディアの影響力というのはとても大きなもので、何かを売る為には、メディアにいかに載るかが勝負だった時代でした。

しかし一方で、話題になれば売れるというのなら、本の中身は関係ないのか?という疑問も浮かびます。
同じような内容の本は、いくらでもあるわけですが、内容の善し悪しではなく、メディアに載ったかどうかで、売れ行きは雲泥の差になってしまったりするのです。

書店に新刊が入荷した時点で、まだお客さんの目に触れない本を手にします。そこでこの本は売れるかどうかを見きわめるのが、朝一番の仕事になります。長年本を見ていると、本の装丁、タイトルを見た時点でなんとなく売れそうかどうかの勘が働いてきます。
そういう中で、これはなかなかいい本だ、と思ってもこのままでは多分売れないだろうな。というものも出てきます。

良い本だから売れる。この図式が成り立たないというのを実感してきました。
ただ、間違ってはならないのは、良い本でなければ、売れる事も無い。という前提があってのことです。
粗悪なものは、結果としてやはり売れないのです。

面白いことに、製造業者と販売業者では、売れるという捉え方に違いがあります。
中小企業者の集まりで10年ほど勉強会をしてきました。その中には物販販売、サービス業、飲食業、製造業という各種の店主が揃っていたので、それぞれの商売に対する捉え方の違いがよく表れていて、大変勉強になりました。
製造業、いわゆる職人気質の人は「良いものを作れば売れる」というのが基本的な意識にありました。
販売業の人は「売れるものが良いもの」という意識がありました。

この構図は、製造販売の大きな会社に見られる、製造部門と営業部門の意識の違いと同じです。
製造は「良いものを作っているんだから、売れない営業部が悪い」
営業は「お客が買わないのは、ニーズに合ってないからだから製造を見直せ」
なんだかTVドラマなどで、よく見かける気がします。

しかしこれ、どちらも間違っているわけではありません。
実は、売れる要素は他のところにあるのです。

お客がものを買う心理とはいったいどこにあるのか?
これを知ることが、商売をする上で重要なことだと思い至ったのです。

ここから人の心理に分け入っていく、長い道のりが始まりました。



2015年8月1日土曜日

こころの健康と臨床 まとめとして

こころの健康と臨床については、ひとまずここで一区切りとします。
ここ半年間、大学の講義で学習してきた事のおさらいといった形で纏めてみましたが、専門的にはもっと幅広く、更に奥深い知識が必要になることでしょう。
ただ、これまでの解説は、精神障害とはどういうものかを知る導入部として捉えていただけたらと思います。
解説した項目も、一般的に体験する場合がありそうな症例から選出しています。
大学の講義を受けるまだ若い学生達が、周りの友人知人や、自分の中にもある障害の要素に気付き、適切な対応をとれるような知識を得ることが、彼らの今後の社会生活においては重要なことと思います。
学生に限らず、一般社会に暮らす多くの人が、正しい知識を得ることで、円滑な社会生活をおくれるというのが、本来目指すところではないでしょうか。

学習していく中で、ここは広く認知していかなければならないというポイントがいくつかありました。
まず、精神障害に対する認識です。
障害という言い方が、イメージとして病気を連想させてしまうことで、病人=異質な存在という感じを持たれてしまってはいないでしょうか?
精神障害を解説するとき、障害というのは、通常の日常生活において、明らかに何らかの支障が起こっている場合を指す、ということを何度も言われました。

私達は他人を認識するとき、その人の性格や特質をもって、パーソナリティを決めています。
本来は誰もが持っている性質において、特定の性格が他の人より目立って現れる部分を捉えて、その人の個性であるという判断をしているはずです。
明るい人、暗い人、怒りやすい人、几帳面な人、臆病な人、集中力のない人、怠け者、など。
こういう人は自分の周りにも、当たり前に居るはずです。
でも、この性格が過剰になっていったら、それぞれの性格に当てはまる障害の症状として表れる事になります。
症状が頻繁に現れ、まともな生活が出来ないとなったら、障害という判断が下されます。

つまり、精神的バランスが崩れれば、誰でも精神障害になり得るということを自覚することです。

精神障害者=異常者 という事ではありません。
自分とは違うものを異質に捉える気持ち(分からないから恐怖と感じる)から異常な人というレッテルを貼ってしまいがちです。しかし、本当は誰にでもその可能性があると知っていれば、そうなる前の対応にも違いが出てくるはずです。

精神障害は特別なことではない。という認識が社会的にもっと広まるべきだと思います。

もうひとつ、心理教育の必要性です。
認知心理療法では、疾患者の囚われている考え方に、別の見方もあるんじゃないの、という形でアプローチをしていきます。その人個人の物事に対する考え方は、それまで生きて来た中で培われてきたものですが、そこに誤ったものの見方や、偏見、異常なこだわりなど、自分でも気付かないうちに身につけていることもあります。
子どもの頃の両親から受けた影響であったり、その時の周囲の人の影響であったり、自分が望むものとは違う環境による体験で、無意識のうちに構築された考え方があったりもします。
自分自身のこころを知ることで、無意識に囚われていた考えを解放することができます。
それによって、悩まされていた症状も緩和されていきます。

自分のこころの中を観察していくのは、なかなか困難なものです。どうしたらそれが出来るのか、誰も教えてはくれませんでした。
こころの反応の仕方、こころと感情の繋がり、思考のもつ癖、といったような心理に関わる知識を正しく教わる機会もありませんでした。
身体の構造や働きに関する知識や肉体強化の運動など、学校教育では習ってきたことですが、心理の構造や働きについて教わった記憶がありません。

現在、多くの人が精神的疾患に悩まされています。
もっと早期に心理教育を受ける機会があったなら、障害にまで至らずに済んだ人もいることでしょう。
医学の発展で、身体についての病気や治療についての知識は広く一般的に浸透してきたと思います。
しかし、ストレスから病気が発症するという事も確認されてきました。
目に見える部分に注目してきた事による成果は、もちろん賞賛すべきことですが、これからは目に見えない部分に焦点を当てていかなければならないと思います。

社会的にも、日本はずいぶん豊かになったと思います。
戦後の食うや食わずを経験した人達は、何もないところから、物質的な豊かさを求めて戦後復興を推し進めてきたことでしょう。生存へのエネルギーは、いろいろなものを満たすことに向けられたと思います。
そして今は、ほぼ物質的に満たされた状況だと言えるでしょう。

人間は欲求の生き物です。欲求を満たすために生きているとも言えます。
物質的欲求が満たされた今、人々の欲求は何処に向かっているのでしょうか?
それが、精神的な問題の増加に繋がっているのではないかと思えるのです。

東日本大震災の時、被災者は衣食住を奪われ、生きることの極限を味わいました。しかし、今の日本はあれだけ多くの被災者を助けるだけの物資が直ぐに集まるのです。これは本当にすごいことです。
住むところは直ぐにはどうにもなりませんが、食べるもの、着るものに関しては、溢れるばかりの物資がぞくぞくと被災地に届けられました。
被災し、避難した人には、食べ物がなくて亡くなったという方はいません。

残念なのはその後、仮設住宅も整い、ひとまず安心して暮らせる状態になったとき、我が身に起こった状況に耐えられず自ら命を絶った人もいるということです。

生活が満たされることが、生きる全てではない、という事を痛感させられます。
あの震災から生き残った事実を、人はそれぞれの捉え方で受け止めています。
何か正しいかは言えるものではありませんが、苦しみや悲しみに目を向けるより、希望に目を向けることが、生きていることの喜びを得られるのだろうと思います。