2015年9月11日金曜日

なにがそうさせている 生き方編6「比較の社会」

「比較の社会」

私達に問題を引き起こすもう一つの原因となるものが、比較するという行為です。
相手と自分を比べる、そうすることで、自分に対しての評価を下しています。または他人に対しても評価を押しつける気持ち(ジャッジメント)が働きます。
他人や、自分自身をジャッジするという行為を、様々な場面で行っていると言えるのです。

残念ながら、これは社会構造の中で当たり前に捉えられており、誰もが子どもの頃から常に比較対象にされて育ってきている環境にあると言えます。
世の中が競争社会である以上、この環境は避けられません。
しかし、その環境に翻弄されて、自分自身を傷つける必要は全くないのです。
ただ、環境によって比較するという意識を植え付けられた生活を送ってきたことによって、その行為も無意識に行っている場合があります。
むしろ、無意識でのジャッジメントの方が多いかも知れません。
それを読み解くカギは言葉の中にあります。

「やるからには、一番じゃなければならない」
「だれよりも優れていなければならない」
「他人より上手く出来なければならない」

こういった言い方には、意識の裏側に比較する対象がいるのです。
誰と比較して一番なのか、誰と比較して優れていると言うのか。でも、その対象が明確に表されている訳ではありません。自分以外という漠然とした対照群に対して、「〜しなければならない」という意識は強迫観念に近いものがあるでしょう。
この、「〜しなければならない」という言い方に対して、なぜ、そうしなければならないのか、という問いかけは、始めから無視されています。

数年前、某議員が「2番じゃダメなんですか?」という問いかけをして話題になりましたが、これはジャッジに対する問いかけであったと思います。
余談になりますが、ここで問われてちゃんと反論出来なかったところが、比較することが正しい事としている意識があると認めた形になったと思います。
本来なら、順位というのはあくまで結果としてであって、始めから1番や2番を目指すとかいった話ではありません。誰もが常に最高のものを目指しているのが理想なのであって、評価されることを目的としているのではないはずです。ここで1番や2番という話をしてしまった時点で、それは評価に囚われた意識で物事を見ているということを露呈してしまったと言えるでしょう。

このように、人はいつでも何かと比較しようとしています。
ただし、この意識がダメだという訳ではありません。比較があるからこそ自身の成長に繋がるという側面もあるからです。他人がやっていることを見て、自分もあのように出来るようになろうという意識は向上心です。今は出来なくとも、向上心があるから努力を重ねて、いつか出来るようになるのです。
また、自分と相手を比べることでその差を認識し、場合によっては欲求が生まれます。欲求も人間にとっては進歩に繋がる意識です。この欲求があったからこそ、人間は進化してきたとも言えるのです。

比較すること自体に問題はないとすると、問題を作っているのは、それを解釈している自分自身にあるということになります。
そこには、競争という原理を善し悪しで捉える意識が大きく関わっているのです。
「1番でなければ、ダメである」
このような概念を根底にすり込まされているとしたら、1番意外は悪い事と捉えても不思議ではありません。
1番になれない自分自身をジャッジして自己卑下に陥るかもしれません。
もっと大きな括りで、出来る出来ないの2極で良い悪いと定義してしまったら、出来ないことは悪い事として捉えてしまい、出来ない=悪い自分というレッテルを自分に課してしまうこともあるでしょう。
自分に向いてジャッジする場合は、自分を責めたり、自己嫌悪に陥ったりという精神的な落ち込みになりますが、相手に向かった場合は、怒りや蔑みといった感情に支配されることになります。
つまり、どちらにしても根底には比較とジャッジメントが働いていることを理解する必要があるのです。

そもそもが、比較に優劣を付けるという考えに支配されている事を認識しなければなりません。
優れているとか優れていないとかは、能力の差であって優劣の差ではありません。平等であるというのは、能力の差があっても、そこに人としての優劣はない、というのが本質です。
競争社会に疑問を呈する形で、運動会の徒競走などはみんなで手を繋いでゴールするという話を耳にしたことがありますが、これでは逆に能力の差を認めない社会という方向性に陥る危険性を感じます。
みんな一緒でなければならない、という意識が個別のパーソナリティの発現を抑制させてしまったり、ひとと違った行為に対しての恐怖を生み出したりする原因となるように思われます。

能力の違いに差を付けて、劣っているものを否定する、という考え方を持っていないかどうか、色々な場面において自分に当てはめてみると、驚くほどジャッジメントを行っている自分に気付くことと思います。
ジャッジメントが行われるたび、自分自身の感情が揺さぶられ、こころ穏やかではいられない自分を作りだしています。そうやってストレスを溜め、精神的に疲弊している自分がいます。
さて、それは本当に自分にとって必要なことなのでしょうか?


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