2015年8月1日土曜日

こころの健康と臨床 まとめとして

こころの健康と臨床については、ひとまずここで一区切りとします。
ここ半年間、大学の講義で学習してきた事のおさらいといった形で纏めてみましたが、専門的にはもっと幅広く、更に奥深い知識が必要になることでしょう。
ただ、これまでの解説は、精神障害とはどういうものかを知る導入部として捉えていただけたらと思います。
解説した項目も、一般的に体験する場合がありそうな症例から選出しています。
大学の講義を受けるまだ若い学生達が、周りの友人知人や、自分の中にもある障害の要素に気付き、適切な対応をとれるような知識を得ることが、彼らの今後の社会生活においては重要なことと思います。
学生に限らず、一般社会に暮らす多くの人が、正しい知識を得ることで、円滑な社会生活をおくれるというのが、本来目指すところではないでしょうか。

学習していく中で、ここは広く認知していかなければならないというポイントがいくつかありました。
まず、精神障害に対する認識です。
障害という言い方が、イメージとして病気を連想させてしまうことで、病人=異質な存在という感じを持たれてしまってはいないでしょうか?
精神障害を解説するとき、障害というのは、通常の日常生活において、明らかに何らかの支障が起こっている場合を指す、ということを何度も言われました。

私達は他人を認識するとき、その人の性格や特質をもって、パーソナリティを決めています。
本来は誰もが持っている性質において、特定の性格が他の人より目立って現れる部分を捉えて、その人の個性であるという判断をしているはずです。
明るい人、暗い人、怒りやすい人、几帳面な人、臆病な人、集中力のない人、怠け者、など。
こういう人は自分の周りにも、当たり前に居るはずです。
でも、この性格が過剰になっていったら、それぞれの性格に当てはまる障害の症状として表れる事になります。
症状が頻繁に現れ、まともな生活が出来ないとなったら、障害という判断が下されます。

つまり、精神的バランスが崩れれば、誰でも精神障害になり得るということを自覚することです。

精神障害者=異常者 という事ではありません。
自分とは違うものを異質に捉える気持ち(分からないから恐怖と感じる)から異常な人というレッテルを貼ってしまいがちです。しかし、本当は誰にでもその可能性があると知っていれば、そうなる前の対応にも違いが出てくるはずです。

精神障害は特別なことではない。という認識が社会的にもっと広まるべきだと思います。

もうひとつ、心理教育の必要性です。
認知心理療法では、疾患者の囚われている考え方に、別の見方もあるんじゃないの、という形でアプローチをしていきます。その人個人の物事に対する考え方は、それまで生きて来た中で培われてきたものですが、そこに誤ったものの見方や、偏見、異常なこだわりなど、自分でも気付かないうちに身につけていることもあります。
子どもの頃の両親から受けた影響であったり、その時の周囲の人の影響であったり、自分が望むものとは違う環境による体験で、無意識のうちに構築された考え方があったりもします。
自分自身のこころを知ることで、無意識に囚われていた考えを解放することができます。
それによって、悩まされていた症状も緩和されていきます。

自分のこころの中を観察していくのは、なかなか困難なものです。どうしたらそれが出来るのか、誰も教えてはくれませんでした。
こころの反応の仕方、こころと感情の繋がり、思考のもつ癖、といったような心理に関わる知識を正しく教わる機会もありませんでした。
身体の構造や働きに関する知識や肉体強化の運動など、学校教育では習ってきたことですが、心理の構造や働きについて教わった記憶がありません。

現在、多くの人が精神的疾患に悩まされています。
もっと早期に心理教育を受ける機会があったなら、障害にまで至らずに済んだ人もいることでしょう。
医学の発展で、身体についての病気や治療についての知識は広く一般的に浸透してきたと思います。
しかし、ストレスから病気が発症するという事も確認されてきました。
目に見える部分に注目してきた事による成果は、もちろん賞賛すべきことですが、これからは目に見えない部分に焦点を当てていかなければならないと思います。

社会的にも、日本はずいぶん豊かになったと思います。
戦後の食うや食わずを経験した人達は、何もないところから、物質的な豊かさを求めて戦後復興を推し進めてきたことでしょう。生存へのエネルギーは、いろいろなものを満たすことに向けられたと思います。
そして今は、ほぼ物質的に満たされた状況だと言えるでしょう。

人間は欲求の生き物です。欲求を満たすために生きているとも言えます。
物質的欲求が満たされた今、人々の欲求は何処に向かっているのでしょうか?
それが、精神的な問題の増加に繋がっているのではないかと思えるのです。

東日本大震災の時、被災者は衣食住を奪われ、生きることの極限を味わいました。しかし、今の日本はあれだけ多くの被災者を助けるだけの物資が直ぐに集まるのです。これは本当にすごいことです。
住むところは直ぐにはどうにもなりませんが、食べるもの、着るものに関しては、溢れるばかりの物資がぞくぞくと被災地に届けられました。
被災し、避難した人には、食べ物がなくて亡くなったという方はいません。

残念なのはその後、仮設住宅も整い、ひとまず安心して暮らせる状態になったとき、我が身に起こった状況に耐えられず自ら命を絶った人もいるということです。

生活が満たされることが、生きる全てではない、という事を痛感させられます。
あの震災から生き残った事実を、人はそれぞれの捉え方で受け止めています。
何か正しいかは言えるものではありませんが、苦しみや悲しみに目を向けるより、希望に目を向けることが、生きていることの喜びを得られるのだろうと思います。


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