2015年9月26日土曜日

なにがそうさせている 生き方編8「SNSの繋がりと孤独感」

「SNSの繋がりと孤独感」

現代社会の中で、近年の精神的な問題には孤独感を抱く人の増加があるように思われます。
人と繋がっていたい衝動などは、孤独になることへの恐怖が根底にあると言えます。
本来、生物学的に言えば、人間も群れで生活する生き物ですから、孤立することは生命の危険が増す状態です。
そう考えると本能的に孤立することは恐怖であるという信号を脳が発するのは自然なことでしょう。
集団でのコミューンを形成し、その中で上手くコミュニケーションを取ることで安全な生活を手に入れてきたのです。

一番身近なコミューンは、やはり家族になります。
自分が生まれ落ちた時から、そこに両親の庇護がなければ生きていけません。親の庇護の元で成長していくことは、ここでのコミュニケーションの在り方が絶大な影響力を及ぼすことは想像するに難くありません。

両親との繋がりで一番重要な事は、愛情をどのくらい受け取っていたかです。
子どもの頃にどれだけ愛情を受けて育ったかで、与えられる喜びを感じる体験が増します。
この感覚が十分でないと、愛情に対する欲求がくすぶってしまいます。
その欲求が満たされないことは、与えてもらえない=分かってもらえない、という孤独感に繋がります。

親の愛情、特に母親の愛情は、無償の愛であると言います。
そこには、親にとっても、子どもにとっても、自分ではない人に対して見返りを求めない愛情が存在します。
どれだけ相手のことを想うのか、それは物理的に測れるものではありません。
お互いがどれだけ相手を理解し、相互に相手を思いやる気持ちを分かり合えた満足感。
その満足感を得ることが出来た時に共感の気持ちが増幅されるのです。

共感の度合いを深くする人がいれば、孤独感は薄れていきます。孤独を感じるのは共感の深さの問題なので、数が多ければ良いとはなりません。
メル友がいっぱいいるとか、LINEやSNSなどで友達が大勢いる、と自慢げに言うのを聞きますが、数が多ければ正しいという概念に縛られているように感じてしまいます。
共感の度合いが少ない人といくら繋がっても、自分自身の本当の満足感は得られないので、どこか数を頼りにしている行為なのではないかと思ってしまいます。
ただ、本人がそれを意識してるかどうかは分かりません。
繋がった人数が増えたとしても、孤独感は消えないと思っているなら、そういう可能性はあるということです。

共感を得るには、相互理解を深めるしかありません。
日本人は世界の中でもBlogやSNSでの個人による自己表現が多いとされています。
投稿写真なども本当になんでもない日常を晒していると言えるでしょう。
自己表現が豊かと言えるかもしれませんが、逆に分かって欲しいという心境がどこかにあるのでは、と思う処もあります。必要以上に自分を晒す行為には自分に注目して欲しいという欲求が隠れてはいないでしょうか。
共感を得たいがために、自分を分かって欲しいという投稿になり、エスカレートすると、フェイスブックなどで「いいね」をどれだけ付けてもらえるかに左右されてしまう事になります。
自分のことを気に掛けてくれることには、誰もが喜びを感じます。
SNSでは、その心理を上手く活用していると言えますが、それに過剰な反応を起こすということは、本来の自分自身が持つ環境にどこか歪みがあるのかもしれません。
自分の事を分かって欲しいという欲求も誰にでもあるものです。しかし、それを一方的に押しつけていては相互理解にはなりません。相手のことをより優先に分かろうとする気持ちがあってこその共感です。

私はこう思う、私はこういう人間です、といった自己主張は必要ですが、それが、だから分かって欲しい、という欲求を満たす行為としてだけなら、相手は押しつけと感じてしまいます。
まずは相手を理解する、受け入れることをすることで、相手の共感も深まるのです。
生物である以上、自己欲求を満たすことは優先される行為になります。生きていく上で自己の利益を獲得する為の技術や知識も習得していきます。損をしない、より得する生き方が正しいという社会的概念も影響します。
しかし、だからこそ相手を思いやる気持ちを持つというのが、より人間的な行為であるとも言えます。
それには打算の無い、無償の思いやりによる繋がりが、より満足感と幸せを得られます。
その最たる経験が、両親による無償の愛情を得る事になるのです。

見返りのなり愛情や思いやりを経験することで、自分自身がそれを相手に対しても出来るようになるのです。
それによって、相手が喜びを得ることが自分の喜びでもある、という実感を得られることで、自身の孤独感も無くなっていくのです。

日本の誇るおもてなしの文化は、他人に対する思いやりにあると思います。しかし孤立感の裏側にある、分かって欲しいという承認欲求の増大には、無償の思いやりに対する感覚が薄れてはいないだろうかという、危惧を感じられてしまうところです。

2015年9月15日火曜日

なにがそうさせている 生き方編7「感情との付き合い方」

「感情との付き合い方」

人間にとって、この感情という得体の知れないものとの折り合いをどう付けるかが、生きていく上でのテーマだと言えるでしょう。
感情は時に非常に厄介なものとして、私達を苦しめたりもします。逆に感情がなければ喜びも得られないということにもなります。感情が暴走して取り返しのつかないことをしでかす場合もあるでしょう。
また、感情があるからこそ、人は人間らしくあるとも言われたりします。

感情の対局としては一般的には理性と言えるでしょう。
物事を理性的に判断する、感情論ではなく客観的な視野で論理的な説明が出来る。
中にはあまりに理性的だと、感情が無い、機械的だ、とか言われたりもしますが、この能力もそれはそれで人間的であると言えるでしょう。
この感情と理性とのせめぎ合いを、人は常に頭の中で行っているのです。

感情を優先するか、理性を優先するか、それはその人の置かれた状況を自身がどう判断しているかで変わります。
その状況が及ぼす影響によってどういった反応をしているか、それを自分自身が意識的であるのか、無意識であるのかで、受け取るものは違ってきます。
ただ、感情は無意識との繋がりが強固なために、時に理性より勝ってしまう場合があります。
無意識で感情が発動してしまうと、理性は意識の外に追いやられてしまい、論理的な判断力は働かなくなってしまいます。突発的な怒りや、不安感などがそうです。
後から考えれば、なんであんなに怒ったとか、不安になったんだろうとか思ったりしますが、その時は感情が暴走してしまっているので、自分ではコントロール出来なくなっているのです。

この無意識に暴走する感情を、どうやったらコントロール出来るようになるのか。
そうやって心理学や脳科学が研究を重ねてきたわけです。
科学の進歩によって、人間の身体の働きが解明されてきました。脳の分野はまだまだ謎が多いのですが、近年の研究によって、その機能については多くのことが分かってきています。
それに基づいて、人間の身体的な機能を理解することで、感情や思考がどのように働くのかが分かります。
自分の中で感情や思考がどのように生まれてくるのかを知ることが、それをコントロールする第一歩です。

感情は脳の扁桃体によって司られています。この部分は原初の生命体であった頃からのものなので、生命を脅かす驚異や食物を得る喜びに直結して反応を起こします。
理性を司るのは大まかに言うと、大脳の部分にあります。状況を客観的に判断し思考する働きをしています。
扁桃体が生物として原始的な状態から存在していることに対して、大脳の部分というのは人間という種に進化すると共に発達してきた部分になります。

人間が、他の動物のように、常に生命の危機に晒されながら生きていく事はありません。しかし、進化の名残としては、命に関わる危機に対してのエマージェンシーに瞬時に反応するようにプログラミングされていると言えます。
この名残が無意識に働き掛ける事によって、感情が爆発したりするわけです。

人間の社会では、どうコミュニケーションを取るかが問題となりますが、実際はそれによって命の危険性まで発展することは滅多にありません。しかし、他人から攻撃されたりすると本能的に危機と捉えた扁桃体が反応し、感情を膨らませます。ストレスホルモンの分泌により、興奮状態を引き起こし、闘うか逃げるかという身体反応を強化させます。その際、余計な思考は瞬時の肉体反応には邪魔になると判断し、思考回路は停止するよう働き掛けます。
思考回路が遮断されるので、そうなったらコントロールが効かなくなるのは当然です。

解決策としては、扁桃体が反応する前に理性をもって自分を見つめることです。
感情が動きそう、と感じた瞬間に意識して、一度感情を手放すように努めると、暴走は防ぐことが出来ます。

現在の脳科学では、脳の可塑性という事について更に研究が進められています。簡単に言うと、脳細胞は再生(新生)されるということです。身体を鍛えると筋肉が増強するように、脳も鍛えた部分が発達するということです。
近年、脳トレとか盛んに言われているのは、この可塑性があることで、年を取っても脳は発達するからなのです。

さて、脳は鍛えれば強くなるということは、負の感情もそれをくり返すことで増強されると言っている事になります。
事実その通りで、自分に良くないことが起こったときに、常に怒りや悲しみ、憎しみなどといった負の感情を繰り返していると、扁桃体が肥大していくことが、研究によって明らかになっています。
逆に、そういう状況でも、ポジティブな考えを持つように繰り返し意識していると、扁桃体は縮小していきます。

意識的に自分の反応をポジティブに変えることによって、脳内の機能を変化させることが出来るのです。
感情をコントロールするには、意識的に脳を変えていくことでそれが可能になります。
そうなったとき、感情に左右されることなく理性的な思考ができるようになるのです。


2015年9月11日金曜日

なにがそうさせている 生き方編6「比較の社会」

「比較の社会」

私達に問題を引き起こすもう一つの原因となるものが、比較するという行為です。
相手と自分を比べる、そうすることで、自分に対しての評価を下しています。または他人に対しても評価を押しつける気持ち(ジャッジメント)が働きます。
他人や、自分自身をジャッジするという行為を、様々な場面で行っていると言えるのです。

残念ながら、これは社会構造の中で当たり前に捉えられており、誰もが子どもの頃から常に比較対象にされて育ってきている環境にあると言えます。
世の中が競争社会である以上、この環境は避けられません。
しかし、その環境に翻弄されて、自分自身を傷つける必要は全くないのです。
ただ、環境によって比較するという意識を植え付けられた生活を送ってきたことによって、その行為も無意識に行っている場合があります。
むしろ、無意識でのジャッジメントの方が多いかも知れません。
それを読み解くカギは言葉の中にあります。

「やるからには、一番じゃなければならない」
「だれよりも優れていなければならない」
「他人より上手く出来なければならない」

こういった言い方には、意識の裏側に比較する対象がいるのです。
誰と比較して一番なのか、誰と比較して優れていると言うのか。でも、その対象が明確に表されている訳ではありません。自分以外という漠然とした対照群に対して、「〜しなければならない」という意識は強迫観念に近いものがあるでしょう。
この、「〜しなければならない」という言い方に対して、なぜ、そうしなければならないのか、という問いかけは、始めから無視されています。

数年前、某議員が「2番じゃダメなんですか?」という問いかけをして話題になりましたが、これはジャッジに対する問いかけであったと思います。
余談になりますが、ここで問われてちゃんと反論出来なかったところが、比較することが正しい事としている意識があると認めた形になったと思います。
本来なら、順位というのはあくまで結果としてであって、始めから1番や2番を目指すとかいった話ではありません。誰もが常に最高のものを目指しているのが理想なのであって、評価されることを目的としているのではないはずです。ここで1番や2番という話をしてしまった時点で、それは評価に囚われた意識で物事を見ているということを露呈してしまったと言えるでしょう。

このように、人はいつでも何かと比較しようとしています。
ただし、この意識がダメだという訳ではありません。比較があるからこそ自身の成長に繋がるという側面もあるからです。他人がやっていることを見て、自分もあのように出来るようになろうという意識は向上心です。今は出来なくとも、向上心があるから努力を重ねて、いつか出来るようになるのです。
また、自分と相手を比べることでその差を認識し、場合によっては欲求が生まれます。欲求も人間にとっては進歩に繋がる意識です。この欲求があったからこそ、人間は進化してきたとも言えるのです。

比較すること自体に問題はないとすると、問題を作っているのは、それを解釈している自分自身にあるということになります。
そこには、競争という原理を善し悪しで捉える意識が大きく関わっているのです。
「1番でなければ、ダメである」
このような概念を根底にすり込まされているとしたら、1番意外は悪い事と捉えても不思議ではありません。
1番になれない自分自身をジャッジして自己卑下に陥るかもしれません。
もっと大きな括りで、出来る出来ないの2極で良い悪いと定義してしまったら、出来ないことは悪い事として捉えてしまい、出来ない=悪い自分というレッテルを自分に課してしまうこともあるでしょう。
自分に向いてジャッジする場合は、自分を責めたり、自己嫌悪に陥ったりという精神的な落ち込みになりますが、相手に向かった場合は、怒りや蔑みといった感情に支配されることになります。
つまり、どちらにしても根底には比較とジャッジメントが働いていることを理解する必要があるのです。

そもそもが、比較に優劣を付けるという考えに支配されている事を認識しなければなりません。
優れているとか優れていないとかは、能力の差であって優劣の差ではありません。平等であるというのは、能力の差があっても、そこに人としての優劣はない、というのが本質です。
競争社会に疑問を呈する形で、運動会の徒競走などはみんなで手を繋いでゴールするという話を耳にしたことがありますが、これでは逆に能力の差を認めない社会という方向性に陥る危険性を感じます。
みんな一緒でなければならない、という意識が個別のパーソナリティの発現を抑制させてしまったり、ひとと違った行為に対しての恐怖を生み出したりする原因となるように思われます。

能力の違いに差を付けて、劣っているものを否定する、という考え方を持っていないかどうか、色々な場面において自分に当てはめてみると、驚くほどジャッジメントを行っている自分に気付くことと思います。
ジャッジメントが行われるたび、自分自身の感情が揺さぶられ、こころ穏やかではいられない自分を作りだしています。そうやってストレスを溜め、精神的に疲弊している自分がいます。
さて、それは本当に自分にとって必要なことなのでしょうか?


2015年9月8日火曜日

なにがそうさせている 生き方編5「問題の解消」

「問題の解消」

何か問題を抱えているという時、突き詰めていくとそこには人間関係の問題が出てきます。
社会生活を送るうえでは、必ず誰かとのコミュニケーションが発生します。そこに何らかの不都合が生じることで、精神的な問題を引き起こすのです。
そこには対象となる相手に対して、何か不快感を持った自分がいるわけです。
この不快感を探っていくことで、自分の持っている精神的な問題が明らかになります。それが自分自身を見つめる事であり、癒しに繋がることでもあります。

本当の癒しとは、自分の抱えた問題が解消された状態です。行楽やレジャーなどで、癒やされたと言っていても、日常生活に戻って問題が解決していないのであれば、それは一時的な逃避でしかありません。
リフレッシュという意味ではストレスの解消に役立つかもしれませんが、問題の根本的な解決は別の所にあります。

コミュニケーションの問題において、なかなか解決に向かわない要因がいくつか挙げられます。
ひとつは、問題となる原因を相手のせいにしている場合です。
「〇〇さんが悪い」
「〇〇さんのせいでこうなった」
こういう思いでいる限り、問題の解決にはなりません。
なぜなら、相手が変わらなければ、何も変わらないからです。
しかも、自分の思うとおりに変わってくれなければならないのですから、そんな都合良くいくわけがありません。

夫婦間の諍いなどは、この典型的な例ではないでしょうか?
「夫が家事を手伝ってくれない」
「いちいち細かいこと言われたくない」
そんな場面がありませんか。
これらは全て相手に要求していることです。自分の思ったとおりに行動してくれない不満を、相手にぶつけている行為です。しかも一番身近な存在であるから、お互いが自分の事を分かって欲しいという気持ちがあるので、逆に些細な事でも気になってしまう事でしょう。
夫婦であるなら、こうしてぶつける事も出来て、それで歩み寄るという場合もあるでしょうが、他人となると、なかなかそうはいきません。どうしても不満をこらえてしまうことになり、それがストレスであり問題となってしまいます。

これを解消するには、自分が変わらなければ解決には向かいません。
他人を変えるより自分が変わること、とよく言われますが、これは全くそのとおりなのです。
人は誰もが自分が正しいと思っています。会話をしていて、それは間違っていると言われたらちょっとムッとくることがあるでしょう。お互いが自分が正しくて相手が間違っていると主張していたら、平行線は続きます。
さらに、ここには自分の事を分かって欲しいという承認欲求も働きます。
人は常に共感されたいという思いも持っているので、否定されることが恐怖でもあるわけです。
間違っていると言われると、それは否定されたことになり、無意識の中で恐怖は闘争本能を引き起こします。そうすると、間違っているといわれたら、食って掛かるという行動に繋がったりするのです。
逆に何も出来ない場合は、そこから逃げることになります。議論は避けるとか、我慢するという行動になりますが、本来逃げるというのは不快な事なのに、そこは無意識で行っているので、不快感だけが意識に残ることになります。

相手から言われてムッとしたり、避けたりしている事は、自分は変わらないと頑なになっている事です。
そんなに自分も変わる事に抵抗があるなら、相手だって同じです。
自分が出来ない事を、相手にだけ押しつけるというのは、ちょっと理不尽とは言えないでしょうか。
それよりは、まず自分が変わる事の方が、よほど楽なことだと思います。

自分が変わるには、その無意識に行っている抵抗が何なのかを探ることです。
なぜ相手がそれを正しいと思っているのか、そしてなぜ自分はそれを間違っていると考えているのか、そこを読み解いていく作業が必要になります。
まず、相手が置かれている状況や立場は、自分とは違うということを認識しましょう。状況や立場が違えば、考え方も違っていて当たり前です。その人にはそう考えなければならないという正当な理由があるのです。
同じように、自分にも自分がそう考えている根拠があるはずです。
意識しているものもあれば、それが無意識に行っている場合もあります。

対人関係の中で、何か問題や不快と感じたら、一旦そこに意識を向けて、相手の何が自分の感情に触れたのかを考えてみましょう。特に無意識は感情と密接に繋がっています。そこが刺激されるから不快や嫌悪などが生じるのです。
感情が揺さぶられると、それに反応するパターンが無意識に発動して自動思考が働きます。
自動思考は、自分の中で常に同じ行動パターンをくり返していき、強固なこだわりになっていきます。それが変化することを妨げている要因です。
そもそも、なぜこだわるようになったのか、なぜそれが不快と思うのか、それは自分で作りだした思いなのです。
それに気付いてしまえば、問題と思っていたことも受け入れられるようになります。
そうなったとき、自分は変われたということであり、問題も解消するはずです。




2015年9月4日金曜日

なにがそうさせている 生き方編4「無意識の行動」

「無意識の行動」

誰にでも何かしらの癖ってありますよね。
貧乏揺すりをしたり、爪を噛んだり。

そういうのって、自分でも気付かずにやっていて、人に指摘されるまで分からなかったりします。
癖になってることは、無意識で行動しています。
目で見て分かるような行動に表れる癖なら、指摘されたり、自分で気付くこともあるでしょう。よほどその癖が恥ずかしいことだったりしなければ、特に気にしたりはしないかもしれません。しかし、さすがにこれは恥ずかしいとか、変に思われるのが嫌だとか、そういう強い思いがあるなら、なんとか癖は治そうと努力するでしょう。
ただいつも無意識でやっていることなので、少しでも気を抜いていたら気付かずにまたやっている、そういう経験はあると思います。
癖を治すことは、かなり意識していないと難しいことです。

無意識の中に刻み込まれた癖は、何か特定の状況に置かれた時に発動するという、自動行動になっています。身体は自動的に動いているわけです。
奇妙で目立った行動だったら、変な癖ということで周りからも意識されるでしょうが、普段の行動パターンというのも、それは無意識で自動行動しているのがほとんどなのです。

意識と無意識、顕在意識と潜在意識とも言いますが、脳科学ではこの割合が3%〜5%:97%〜95%であると言われています。少なくとも95%が無意識であるということになります。
つまり人は意識的に行動している部分が約5%程度で、あとの行動は無意識によって動かされているのです。

人間の脳は学習した事を記憶します。そしてそれが反復行動される事によって、無意識に刻み込んでいきます。
脳は常に新しいことを学習していかなければなりません。意識的に物事を考え、新しい状況に対応していく方策を練っているのです。日々情報は更新され、それを処理するだけでも大変な労力となります。ですので、なるべく考えなくて済むような行動パターンは無意識の領域に追いやる方が効率的なのです。
こうような脳の働きがあることで、人は常に新しい事にチャレンジしていく事ができるようになっているのです。

これは行動だけではありません。思考のパターンというのも無意識に刻まれているということです。
癖がなかなか治らないのと同様に、無意識の領域にある思考パターンも簡単には治りません。
やっかいなのは、無意識の思考というものに、本人に全く自覚がないということです。
目に見える癖ならば、その行動は変だよ、と指摘できます。それは本人も自覚できるでしょう。
しかし、その考えはおかしいよ、と言っても、なかなか受け入れてはくれません。
思考についても、そのほとんどが自動思考しているのを理解されていないのです。

そもそも癖という言い方は、何か目立った奇妙な行動であるから癖と言うのであって、ほとんどの行動は全てが癖になっている、と言えるのです。考え方にしても、その人の考え方は癖であって、何かしらの影響によって反復処理されたものがパターン化した思考として無意識に刻み込まれたものなのです。
そしてそれが個性であり、その人らしさといったもので捉えられているのです。

それまで生きて来た中で、無意識の領域に蓄積してきたものは膨大なものでしょう。そう考えると無意識が95%を占めると言われても、なんだか納得出来るように思います。
無意識からは行動パターンの信号が発せられます。この信号は95%という割合から言っても強力なものです。
絶対的支配者の命令のように、ついついそれに従ってしまいます。
理論的思考が、それはちょっと違うんじゃないの、と思っても命令は絶対です。従わざるを得ません。
意識と無意識のせめぎ合いは、どうしても無意識の方に分があるわけです。

それを変えよう、というのですから、よほど意識に強く働き掛けなければならない事が分かります。
行動の癖を治すだけでも、相当の時間がかかります。

実は自分もお箸の使い方に癖がありました。19歳ごろまではえんぴつ持ちだったのです。
それまでは、特に気にせずにいたのですが、バイトをした所で指摘されたのがきっかけで治すことにしました。
たまに出るようの癖とは違って、食事は毎日ですから、その都度箸の持ち方を意識したのですが、慣れないうちはこれがとても食べにくいのです。
始めのうちは指がつりそうになりながら食事していました。
そのうち、なんとか慣れてはきましたが、それでも全く意識せずに箸が使えるようになったと感じたのは1年後ぐらいのことです。毎日意識していても、無意識で出来るようになるまで、それだけの時間がかかったのです。
そう思うと、今までの行動を変えようとしても、そう簡単に身につくことではありません。
それでも、15年以上身体に刻み込まれた行動を1年で矯正出来たわけですから、変えようと思えば変えられるのです。

それには、意識的に行動すること、無意識を意識すること、それを継続するよう心がけることです。
やろうとしている事が意識せずに出来るようになったとき、それは身についたと言えます。


2015年9月1日火曜日

なにがそうさせている 生き方編3「殻や壁の本質」

「殻や壁の本質」

殻や壁で守っているものは、自分自身の信念にあります。

「私ってこういう人だから・・・」
よくこんな言い方をしている人がいませんか。

「こういうの上手く出来ないんだよね。ほら、私って不器用な人だからさ〜」
これは、上手く出来ないという自分の評価に対して、不器用だということで正当性を付けようという気持ちの表れです。
不器用なんだから、上手く出来なくてもしかたが無いんだというアピールです。
これも一種の殻であり、壁でもあるわけです。

上手く出来ない事を、周りから責められる。
または、周りからの評価が下がる。
そういう状態になることで、自分が傷つくことを避けたい思いがあるわけです。

責められる前に、不器用であることを宣言して、周りには仕方が無いと思わせる。
自分が不器用だと思い込む事で、この件に関しては下がる評価を受け入れる。
こういった心理が働いています。
そうすることで、次回から同様の状況が起こったとしても、自分は上手くやらなくても済むという保険を手に入れるわけです。

器用か不器用かは、ひとそれぞれの個性なので、本来ならそこに優劣を付けるべきものではないはずです。しかし、人はどうしても他人と比較して出来る、出来ないという評価をして生きて来ています。
こどもの頃から、
「〇〇ちゃんは出来るのに。」とか
「みんなやれるのに、なんで出来ないの。」
といった言われ方をして育っていたりするので、しかたが無い部分もあるでしょう。
「ほんとにあなたは不器用ね。」
などと親から言われて育ったとしたら、本当はコンプレックスであるのに、それを正当化して自分自身を納得させるという方法で、傷つくことを回避してきたと言えます。

誰でも、人から責められるのは嫌なものです。
それで怒られたりしたら、その行為自体が恐怖の対象になってしまいます。
恐いことをやろうとするから、余計に不安感がつのって、パフォーマンスが落ちてしまいます。
そして上手く行かなかったら、また責められる。
それをくり返していくうちに、自分はこういうことには向いていない。出来れば避けて通りたいという思いが強くなります。
そうやって自分は不器用だという思いが育って、信念となっていきます。

ここまで来ると、なかなかその思いは変えられません。
自分で信念まで育てたものを、自ら壊すのは並大抵では出来なくなります。
ものごころついた時から、そういう状況は避けて通ってきた事なので、もう自分からやろうという気にはならないはずです。勧められても絶対にやらない、とか言って拒否したり。

この様に、信念となるまで育てた思いが、殻となり壁となっていきます。
自分は不器用である、という思い込みも自分の中では信念としてあるでしょう。
しかし本当は、”上手く出来ないのはダメな人である”というのが根底にある隠れた信念なのです。
出来ないやつ、ダメな人間、そういうふうに周りに思われる事が恐い。
この思いが根底にあるので、そう思われない為の自己防衛として不器用な人間である自分を作りだしているのです。

一見、「わたしって不器用だからダメなんだよね。」
といって自己卑下しているように見えますが、本当は人一倍、出来ないという事にコンプレックスを抱いているのです。
ですから、そこを強く刺激すると、パニックになるか、逆に怒り出すという事も起こる可能性があります。
逆ギレするというのは、そこを突かれるとあまりにも痛いという逃走闘争本能からくるものです。なので、怒っている人は、そこが本当は恐いことなんだなと理解できるのです。

このように人は恐いことから殻や壁を作って、避けて通ることをしています。
自分に殻や壁があると思うなら、その元となった部分にある恐れを探してみましょう。それが分かれば、自分自身のことがよく見えて来ます。ただ、恐いことには触れたくない、というのが心情です。そもそもそれが恐いので避けて通ってきたので、もはや無意識の領域にまでなっていると、回避行動も自動的に働いていたりします。自分でも本来の理由はよく分からないといった状態になっていたりすると、なかなか自分で恐れの根源を探るというのは難しかったりするでしょう。
客観的なアドバイスをもらうことで、気づけたりもするので、意識して誰かと話をしてみるのもよいと思います。

しかし、殻や壁を作って避けて通っていた恐い事は、本当に恐い事なのでしょうか。
この例でいえば、そもそも上手く出来なかったことで、責められたという状況がありました。
恐いのは責められた事のはずです。
上手く出来ようが出来まいが、それ自体には良いも悪いもないのです。

上手く出来なかった→責められた(ダメな人)→苦痛

この苦痛を回避するためには、責められないような対処をしなければならない。
そうやって自分が反応した対応が、不器用な自分であるという自己像になりました。
しかし、ここで責められなかったらどうでしょう。

上手く出来なかった→それでも褒められた→快楽

もし、こういう状況であったなら、そこに恐れの感情は起こらなかったはずです。
つまり、上手く出来なかった事、不器用であるという事には、何の意味もありません。
問題となっていたのは、責められた事にあるのです。
責められて、苦痛を感じたことに、自分はどのような反応をしたのか、ということが殻や壁を作った理由にあるのです。

苦痛は責められた事なのですが、それを今度は自分がダメだから責められる、と内部変換してしまうと、上手く出来ないのはダメな人である、という思い込みになります。
こうなると、本当の原因とは違うところが問題だ、とすり替わってしまい、自分でも根底にある恐れに気付けなくなるのです。

自分が不器用なのが問題だと思っていたことが、それは問題ではない、と気付くことが殻や壁を破る為のアプローチです。
殻や壁を破るとは、そもそもそんなものは必要無い、という気付きを得る事なのです。



2015年8月27日木曜日

なにがそうさせている 生き方編2「殻を作っているのは何」

「殻を作っているのは何」

殻や壁を作るというのは、内側と外側を隔てる行為です。
内側は自分自身であり、外側は自分に及ぼす影響全体を指します。
人間は常に外界から、なんらかの刺激を受けて生きています。そしてそれは自分を取り巻く環境から大きな影響を受けていると言えます。
一番影響力の大きな存在は両親でしょう。
家庭環境とは、すなわち両親との関係性による部分が大きな位置を占めています。さらに兄弟姉妹、祖父母という家族との関係性、次に友達となる人との関係性、といったようにコミュニケーションの巾が広がるにつれ影響を受ける対象も広がっていきます。

このように、人は常に外側からの影響にさらされて生きていきます。
その外側から及ぼされる影響に対して、それを自分にとって良いことであるかどうか判断し、どの様に対応するかを選択しています。
もちろん、自分自身も意思表示という方法で、周りに対して影響を与えてもいます。
赤ちゃんの意思表示は泣くことです。
泣くことによって、自分の求めるものを得ようという行動です。それに影響されて親は何事かと赤ちゃんを気に掛けます。
この時、泣いている赤ちゃんがほっておかれたらどうなるでしょう。
赤ちゃんにとって、最大の意思表示である泣くことが誰にも伝わらないとしたら、その赤ちゃんは、泣いていても欲しいものは得られない、という思いになりませんか。
それが、赤ちゃんの認知した状況ということになります。

次に、認知した状況に対して、どのような反応をするべきかを自分の中で作り上げます。
この場合、
泣いていても疲れるだけだから、泣くのは極力止めよう。
と考えたとしたら、あまり泣かない赤ちゃんになるかもしれません。
あるいは、
泣くだけでは不十分だ、自分から動かなければならない。
そう考えたとしたら、人一倍早くハイハイが出来る子になった。
ということもあるかもしれません。

このように、起こった一つの現象である状況を、どのように認知して行動するかで人の心理を探求するのが認知行動心理学の考え方です。

赤ちゃんは、そうやって自分の周りに起こった現象を捉え、自分の中でどの様に行動するかを決めていきます。もちろんそれは自分にとってそれが都合の良いであろうことを選択します。
生まれたばかりの人間の赤ちゃんは、周りから手を掛けてもらわないと生きていけません。
赤ちゃんの泣く行為は生きるという意思表示であり、生かして欲しいという自己主張でもあります。
生存という、生命の根幹に関わる問題に、赤ちゃんは生まれてすぐに直面するわけです。
この瞬間から、自力で生きる為の選択という自己選択決定権が与えられる事になります。

赤ちゃんは自己中心的欲求の塊です。
それは生存に直結する欲求ですから、当然と言えます。
これは生命の根源でもあるので、人としても例外ではなく、むしろ本能としてこの欲求を満たすために行動すると言っても良いでしょう。
この欲求は無意識の中に深く刻まれているので、普段意識することは滅多にありません。しかしその部分が、自分でも気付かないまま、少なからず感情や考え方にバイアスを掛けている事でもあります。

さて、赤ちゃんであるうちは良いのですが、自己中心的欲求を満たすための行動は、段々と制限されていきます。
そのうちに、「わがまま」と言われちゃうわけですね。
赤ちゃんは日々新しい事に興味を持ち、色々なものを得ようという欲求が膨らみます。人間の社会で生きていくには、人とのコミュニケーションは不可欠であり、社会の情報を得ることは生存に関わる問題であるからです。
生命として孤立しては危険である、という意識が本能として備わっているとしたら、人が誰かと繋がっていたいという欲求は自然なことであり、一人になることへの恐怖という意識は無くならないのです。
現代の問題には、このコミュニケーションによる問題が、とても表面化しているように思われます。

こどもが成長する過程で、自己中心的欲求による意思表示と、それに対して周りが反応した事によって起こる現象に、自分がどう反応するかでコミュニケーションの方法が決められます。
そのように反応することが、自分にとって都合がよいと判断するわけです。
そういう現象を繰り返していくことで、自分の行動パターンが決定づけられていきます。
このことによって、自己が形成され自分とはこういう人間であるという自意識となっていくのです。

殻や壁というのは、往々にして他者との間でのコミュニケーション中に、自分にとっての何かしらの不都合な現象が起こった場合に表れると言えます。
殻や壁というのは、防御したいということですから、それ以上触れて欲しくないという反応ということになります。
その事に関しては、自分が子どもの頃から培ってきた行動パターンに当てはまる反応をしているわけです。自分はそれをすることで自己形成してきた、これが自分なんだという揺るぎない信念があるのです。
信念という認知が自分にあるので、それはとても強固なものとなっています。
なぜなら、常にそれは自分にとって不快なものだという認知を繰り返してきたからです。

しかし、よく考えてみると、自分が不快と思っている事でも、他の人にしてみれば全く気にならない事であったりします。
これはどういう事でしょう。
つまり、それを不快と思った、認知したのは自分であって、同じ環境であっても、そうは捉えない人もいるということです。
同じ環境で育ったはずの双子であっても、性格が違うというのは、それぞれの認知のしかたが違っているからなのです。

まずは、殻や壁を作った原因となる現象が何か、自分自身の中で探ってみることです。