2015年9月26日土曜日

なにがそうさせている 生き方編8「SNSの繋がりと孤独感」

「SNSの繋がりと孤独感」

現代社会の中で、近年の精神的な問題には孤独感を抱く人の増加があるように思われます。
人と繋がっていたい衝動などは、孤独になることへの恐怖が根底にあると言えます。
本来、生物学的に言えば、人間も群れで生活する生き物ですから、孤立することは生命の危険が増す状態です。
そう考えると本能的に孤立することは恐怖であるという信号を脳が発するのは自然なことでしょう。
集団でのコミューンを形成し、その中で上手くコミュニケーションを取ることで安全な生活を手に入れてきたのです。

一番身近なコミューンは、やはり家族になります。
自分が生まれ落ちた時から、そこに両親の庇護がなければ生きていけません。親の庇護の元で成長していくことは、ここでのコミュニケーションの在り方が絶大な影響力を及ぼすことは想像するに難くありません。

両親との繋がりで一番重要な事は、愛情をどのくらい受け取っていたかです。
子どもの頃にどれだけ愛情を受けて育ったかで、与えられる喜びを感じる体験が増します。
この感覚が十分でないと、愛情に対する欲求がくすぶってしまいます。
その欲求が満たされないことは、与えてもらえない=分かってもらえない、という孤独感に繋がります。

親の愛情、特に母親の愛情は、無償の愛であると言います。
そこには、親にとっても、子どもにとっても、自分ではない人に対して見返りを求めない愛情が存在します。
どれだけ相手のことを想うのか、それは物理的に測れるものではありません。
お互いがどれだけ相手を理解し、相互に相手を思いやる気持ちを分かり合えた満足感。
その満足感を得ることが出来た時に共感の気持ちが増幅されるのです。

共感の度合いを深くする人がいれば、孤独感は薄れていきます。孤独を感じるのは共感の深さの問題なので、数が多ければ良いとはなりません。
メル友がいっぱいいるとか、LINEやSNSなどで友達が大勢いる、と自慢げに言うのを聞きますが、数が多ければ正しいという概念に縛られているように感じてしまいます。
共感の度合いが少ない人といくら繋がっても、自分自身の本当の満足感は得られないので、どこか数を頼りにしている行為なのではないかと思ってしまいます。
ただ、本人がそれを意識してるかどうかは分かりません。
繋がった人数が増えたとしても、孤独感は消えないと思っているなら、そういう可能性はあるということです。

共感を得るには、相互理解を深めるしかありません。
日本人は世界の中でもBlogやSNSでの個人による自己表現が多いとされています。
投稿写真なども本当になんでもない日常を晒していると言えるでしょう。
自己表現が豊かと言えるかもしれませんが、逆に分かって欲しいという心境がどこかにあるのでは、と思う処もあります。必要以上に自分を晒す行為には自分に注目して欲しいという欲求が隠れてはいないでしょうか。
共感を得たいがために、自分を分かって欲しいという投稿になり、エスカレートすると、フェイスブックなどで「いいね」をどれだけ付けてもらえるかに左右されてしまう事になります。
自分のことを気に掛けてくれることには、誰もが喜びを感じます。
SNSでは、その心理を上手く活用していると言えますが、それに過剰な反応を起こすということは、本来の自分自身が持つ環境にどこか歪みがあるのかもしれません。
自分の事を分かって欲しいという欲求も誰にでもあるものです。しかし、それを一方的に押しつけていては相互理解にはなりません。相手のことをより優先に分かろうとする気持ちがあってこその共感です。

私はこう思う、私はこういう人間です、といった自己主張は必要ですが、それが、だから分かって欲しい、という欲求を満たす行為としてだけなら、相手は押しつけと感じてしまいます。
まずは相手を理解する、受け入れることをすることで、相手の共感も深まるのです。
生物である以上、自己欲求を満たすことは優先される行為になります。生きていく上で自己の利益を獲得する為の技術や知識も習得していきます。損をしない、より得する生き方が正しいという社会的概念も影響します。
しかし、だからこそ相手を思いやる気持ちを持つというのが、より人間的な行為であるとも言えます。
それには打算の無い、無償の思いやりによる繋がりが、より満足感と幸せを得られます。
その最たる経験が、両親による無償の愛情を得る事になるのです。

見返りのなり愛情や思いやりを経験することで、自分自身がそれを相手に対しても出来るようになるのです。
それによって、相手が喜びを得ることが自分の喜びでもある、という実感を得られることで、自身の孤独感も無くなっていくのです。

日本の誇るおもてなしの文化は、他人に対する思いやりにあると思います。しかし孤立感の裏側にある、分かって欲しいという承認欲求の増大には、無償の思いやりに対する感覚が薄れてはいないだろうかという、危惧を感じられてしまうところです。

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